日経4月22日文化欄「被災者が見た被災地」
気仙沼リアス・アーク美術館の職員が撮った写真を展示。
山内宏泰・学芸係長。転載
今月3日、東日本大震災で被災した宮城県気仙沼市のリアス・アーク美術館が昨年7月の部分開館を経て、全面開館にこぎ着けた。


話し続ける来館者


三陸地域の文化や習俗を紹介するこれまでの内容に加え、今回新たな常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」が始まった。美術館の職員が震災後の地元を撮影した写真、現場で拾った日用品合わせて約500点を展示するものだ。

毎日平均100人ほどが訪れるが、黙って展示室を歩く人はとても少ない。9割以上を占める地元の来館者は、展示物を見ながらひたすらしゃべり続ける。「これは○●の家じゃないか??」「ここは○●交差点当たりだよな」。思い出したくないという声もある。しかし震災で何が起きたのか知りたがっている被災者もいる。会話を聞いて、私はその思いを強くした。

震災直後からテレビやラジオ、新聞の報道が一斉に始まった。しかし驚くことに、当事者である被災者は震災についてのリアルな情報にほとんど触れていない。

着の身着のままで避難所に逃れ、そのまま半年余りを過ごした人も多い。役所や学校にこもり対応に明け暮れた人もいただろう。自宅を探そうとして危険だと止められたケースもある。一方、メディアで報道されるのは気仙沼・鹿折地区に打ち上げられた大型船や南三陸町・志津川地区の防災庁舎といった「象徴的」な現場ばかり。気がつけば自分の町内は忘れ去られたまま、更地になったと感じる人は少なくないのである。

美術館の足元で起きた震災を記録しなければならない、と考え始めたのは、震災から数日後のことだ。高台に立つリアス・アーク美術館は敷地が地割れし、壁や天井の一部が崩落。その中で美術館にできることを考え抜き、地元の被災状況を写真に収める活動を始めた。

壁に残る家族の絵

私を含む職員4人でスタート。美術館の運営母体である気仙沼市、南三陸町内で、人が暮らしていた場所はすべて回る覚悟だった。最初の1カ月は朝から晩まで、膝まで水に漬かりつつ、つえで足元を確認しながら前に進む。これ以上は進めないというところまで迫って、小型カメラのシャッターを切る。私たちが心で感じたこと、頭で考えたことも書き残すようにしてきた。

気仙沼市内、只越地区にある家には数回、足を運んだ。集落のほとんどの家屋が流される中、ただ1軒、激しく壊れながらも引き波に耐えた家。最初に訪ねたとき、がらんどうの1階の壁を見て、涙が出た。この家の子供たちが描いた家族全員と犬の似顔絵、解体が決まった我が家に向けた「ありがとう」「LOVE」のメッセージ。世の中が「ガレキ」と呼ぶのは、人が愛した家であり、大切にしていたものなのだ。

現場からはそうした「被災物」も拾い集めた。ぬいぐるみや楽器、ランドセル-。どれも見つけた瞬間、さまざまな思いが頭を巡る。年代物の8合炊きの炊飯器を見つけたときのこと。フタを開けると、どす黒い水が流れ出し、そこから白いごはんがひとかたまり現れた。昔は大家族だったが、じいさん、ばあさんが亡くなり、子供たちも独立したのだろうか。大きな炊飯器で2人分の飯を炊くつつましい夫婦の姿がなぜか思い浮かんだ。

私たち職員の多くも被災している。三陸地帯の漁撈史が専門で当時、副館長を務めていた川島秀一氏も母親を亡くされた。自宅は津波で流され、門柱くらいしか残らなかった。自宅跡を調査中、愛用の電動鉛筆削りを見つけ、喜ぶ川島さんの姿が目に焼き付いている。

経験伝える拠点に

気仙沼の内湾にあった私の自宅も流れてきたオイルタンクに直撃された。鉄骨4階建て相当のビルが根こそぎなくなっているのを見た時には、「嘘だろう」と絶句。10年前、仲介した不動産屋が津波を心配する私に「一時避難所にもなっているこれダメなら市内は全滅」と明るく話していたのを思い出した。

震災前の2006年、私は明治三陸大津波(1896年)を題材にした展覧会を手がけた。ところが市民からの反響はほとんどなかった。危機感がまるで失われていたのである。ここ三陸は数十年に一度、津波に見舞われる。つまり、津波は「未曾有の災害」ではないのだ。私たちには震災の経験を次代に伝える義務がある。リアス・アーク美術館はそのための拠点で有り続けなければならないと痛感している。




幾つか違う点はあるが、福島でも、同じ取り組みがなされることを期待します。

放射線も、放射線不安も目に見えないので、写真で撮ることはかなわないが、震災後の人々の心を形にしておくことは必要なのではないかと思います。

三陸は、津波がよく来るから、今後の人たちのために伝える義務があると、山内氏は言っています。

ならば
福島は、
同じような放射線災害のようなことが起きたときのために、人々が何を恐れ、何を考え、どう行動したか、またはどう行動しなかったかを記録し、伝える義務があるのではないか?

と、思います。

同じく、チェルノブイリでは、どうだったのか、という文献が、今の福島には必要でしょう。しかし、反原発派のバイブルにはなり得ない、ニュートラルな記録でないとなりません。。







ちょうど、福島県教委からメルマガですが。。。

◎福島県文化財センター白河館「まほろん」からのお知らせ 
  
   ○『特別企画展』文化財復興展  「救出された双葉郡の文化財Ⅰ」
     東日本大震災で被災し、原発事故の影響により警戒区域に取り残された浜通り地方
の双葉町、大熊町、富岡町の各資料館から、文化財レスキューにより救出した考古
資料、民俗資料、古文書などの歴史資料を展示・公開します。
     是非、ご観覧ください。

   期間:開催中~平成25年6月9日(日)(好評開催中!)

まほろんのHPはこちらです。

でも、多くの人が、今、見にいきたいのは、古文書や復元された文化財なんでしょうか???






これに関連し、ある方の意見、「なるほどなぁ」と思いましたので、はっておきます。
段落、強調は私がつけました。

保健婦資料館付属研究所研究員、楓瑞樹さんのツイートです。


『民俗学の可能性を拓く』第7章鬼頭秀一「民俗学における学問の「制度化」とは何か 自然科学の「制度化」のなかから考える」と菅豊「おわりに」読了。鬼頭氏の論は正直に言って何をいいたいのか全く理解できないもので、どこをどう解説したらいいものかわからない部類の論である。

簡単にまとめてみると「科学」という分野の確立と専門化の過程の中においてアカデミズムは形成され、その「公有主義」「普遍主義」「利害超越」「系統的懐疑主義」をしてきたとあり、それは専門領域であり科学者による専売な世界として位置付けられると述べている。ところが、民俗学という学問はそうした「科学」の標榜するアカデミズムとは違った。いやアカデミズム側からはネガティブにとらえられている非科学的な土俗の文化、伝承を体系化させ、まさに地域に根付いた「野の学問」として出発しているという大きな違いを提示している。

その上で、それが大学制度などにより「科学」のように専門化され「制度化」されることにより大学教育の中で育ってきたが、現在に至ってその限定的な見方から脱せずに狭いアカデミック内での議論を積み重ねつつあり、他にアウトプットできる場が、「野の学問」として市民等に解放された知の共有がなされないままになっている現状を嘆いている。鬼頭氏の大まかな内容としては以上のようなもので、それに西洋科学史的な哲学としての概念規定を用いてアカデミズムを説き表している。

この論自体の評価は『民俗学の可能性を拓く』という本書において、なんの関係性があるのか、また諸科学の位置付けとアカデミズムの形成論に、民俗学という異質な物を投げ込んでいるだけであり、全く理解不能な章になっている。民俗学の未来的展望に関する言葉もなければ、単にアカデミズムと「野の学問」の民俗学という原始に戻ったやりとりでしかなく、可能性どころの問題ではないように感じた。

あと、鬼頭氏のいう民俗学とは、いったいどのようなものをさしているのか、それすらわからない。ただ抽象的な表現として「野の学問」を用いているだけで、じゃあそれはいったいどのようなものであり、学問的意義はどこにあり、アカデミズムに加わるに当たりどう言ったプロセスが必要であったのかという段階すら踏んでいない。他分野の人から見て民俗学とは何だという問いかけであって、それがアカデミズムのなかにどう位置づけられるべきであったのか、はたまたアカデミズムになりえてよかったのかどうかということを本来は問うべきものが全くと言っていいほどでてこない。これでは本書の目的にそぐわないものではないのか。厳しくいって、これは「学問の分析にあらず、単なる傍観だ」といえる


さて、熱くなりすぎたが、「おわりに」の菅豊氏の文章を垣間見てみると、あらためて本書がアカデミズムに固執する余りに身動きができなくなってしまった民俗学を批判的にとらえ、今一度民俗学がとらえるべきもの、将来的な展望としての可能性をみいだすものとして編まれたことがわかる。そして彼ら編者、執筆者一同が思うことは、民俗学の有効性を視野に入れた活用。社会的貢献を見いだし、外に向けた発言の強化をねらっていること望んでいる。それが民俗学の生き残る道であると。

その上で私が感じることは、多分今の民俗学が過去の残留する「民俗」をとらえることを辞めない限り、これは達成しないものではないかと考える。文化財行政ならまだしも、それ以外に民俗学が今のまま生き残れる可能性はゼロに等しい。

祭礼、信仰、伝承、民具などなどの分類化され、それぞれに専門家を宿し、特殊性をアピールした民俗学が辿るのは、伝承者の絶対的不足、社会変化における歴史性の希薄化、国や行政によるテコ入れによって出てくる利益をもとめる習俗の輩出といったもので、そこに過去の遺留品を見いだすことも記すこともできなくなっている。

また文化財行政による登録によって過去の「民俗」は縛られ身動きができず伝承が危うい自体にさえなってくる始末。そんな状況でなおもこだわり続ける過去への執着はもう限界がきているだろう。土を掘って発見できるようなものではないし、文献ででてくるものでもない、一般民衆の営みなんていうものは時代の潮流に木の葉のごとく流れていく、ひらひらと変化させていく、それが当たり前のことである。それを認識せずに過去のままのものを求めることそれは無駄としか云えない

それよりも、その潮流の変化が見せるものは何なのか動態的な変化の過程はいかなるものでどのような要因がそこにあるのかを、地域の目で見ていくことが重要ではないのか
それが「野の学問」であり、フィールドであり、在野の市民を見ることではないのか。


私は民俗学が柳田以降、事象の意味づけを中心にしてその説明にやっけになってきたことを思い起こすと、それはアカデミズムの仲間入りになりたいがための工作ではなかったのかとさえ思う。となれば、今大学の教育課程で意味づけを掘り起こすことになんの意味があるのか、自己と学問とを単に天秤に掛けているだけではないのか。そこに周囲、社会は全く関与しないままに放置され、浦島太郎のようになってしまっていないか。民俗学の最大の過ちは、自己と対象に社会を巻き込まなかったことではないだろうか。

ふぅ。なんだか毒吐いていたように思うけど、とりあえず『民俗学の可能性を拓く』という書物を読んでいただければその意味が分かると思う。岩本氏や菅氏、加藤氏、小国氏の論は精密な分析で民俗学の可能性をかなり広げるものであったと思う。反面、中村氏、伊藤氏、鬼頭氏の論は具体性にかけアカデミズム論に終始しているのが逆に可能性の有無をうやむやにしてしまっている。なんとも残念でならない。

最近の民俗学を標榜してその学術性を問う書籍の数々にもの申すとすれば、もう柳田國男を出発点にしていく民俗学史的考察は避けた方がよい。それよりも、現代社会における諸問題、少子高齢化、過疎化、児童虐待、いじめなどの今解き明かさないといけない問題は沢山ある。過去に縛られて方向性を失うような書物に学問的価値があってはならない。もうそのような悠長なのことを言っている場合ではない。先にも述べたように民俗の取り巻く事情は急激に変わってきている。現代に視野を持って行き、過去の経験を生かせる場を探すほかはない。


楓さんのおっしゃることは、民俗学よ、今のままではもうダメだ、ということで、私が被災地を思った場合と通じる点が多く、コメントを書きました。

↓ ↓ ↓

「在野の市民」見てほしいですね。民俗学の生き残りのためではなく、震災後、苦しんでいる人々のために、です。そんなことをこの前書きました。 しかしそれができれば、民俗学は「結果として」生き残ると思います。

返信いただきました。

震災後たくさんの民俗学者が、被災地に赴いて民俗調査をされたそうです。私の所属する保健婦資料館もまた民俗学ではありませんが、現地に飛んで、そこで働く保健師や被災者の声をきいてきたといいます。ところが、民俗学者がそこを訪れた理由をきくと、失われた祭礼の痕跡ややはり過去に類するものを聴いて回り記録を取ることを優先的にしています。そこに「在野の声」をきく、真の聞き手があるかと言えばそうではなかったように思います

返信しました

そうなんですね。だから古文書を復元、とか、神社を、というニュースをよく見るのでしょうか。被災地の方は話す機会がないのだと思います。不安を。怖さを。それを能動的に聞いて受けとめるには、民俗学の作法が一番適しているので期待します

また返信いただきました

今の民俗学には話者の話を聞くことと言うのはデータ取りとしか考えていない人が多いように思います。心のケアとしての話術を用いることは今後の民俗学の課題かも知れませんね。

また、以下のこともツイートされています。

東北の被災地で、様々な民俗の取り組み復興事業がされていてそれも実践であるとは私は思うけど、それだけが、一過性の取り組みだけであってはならないと思う。もっとそこの地域の生活文化の立て直し、それを目指すべきだと思う。

震災で失われたのは、祭礼とかの機会じゃなくて、人脈としてのものであり、そこに家と家を結ぶ社会的連関。婦人会とか青年会とか子供会とかそういう母体をうまく活用していかないといけない。祭礼が人を結んでいるのでない。人を結んでいるのは祭礼の一過性ではなく恒常的な社会の母体だ。





たしかに祭りを再生することは大事です。相馬野馬追が行われ、どれだけ人々が勇気づけられたか。神社が別の場所にまたできることで、どれだけ人々が心の支えになったか。
私はそれを否定するものではありません。

ただ、大事なのは、今の人々、すべての人々が、その祭りやその神社を心のよりどころにしていたわけではないということでしょう。
東北だからと言って、皆が近所づきあいを密にし、地元の祭りを大事にし、神社にお参りし、ということではない。移り住んでいるよそ者も居れば、そういうものから外れていた人だっているはずなのです。今は「村八分」などということは言われなくなりましたので、そういう共同体に属さずとも生きていける世の中です。東北とてそれは同じこと。

地元に生まれて地元を愛して生きる人間に、どうしても光が浴びがちだと言うことも、私は、外に出たからこそ感じるのだ。もちろん、よそ者だって、みんなやさしく混ぜてはくれる。

しかし、たとえば、浜松に津波が押し寄せて、5月に行われる「浜松まつり」が開かれなくなったとする。しかし、次の年にはまた開けるようになった、だからめでたしめでたし、というのがメディアや地元住民の感想だろうが、私にとっては浜松まつりには格段の思い入れはなく、どうということはないのだ。

民俗学とは、そういうものではなく、等しく無の市民の声を拾い上げるというところにあるのだとしたら、祭礼に目をつけるのは、民俗学からすればキャッチーで王道なんだろうけれど、私にとっては、全く片手落ちと指摘させてもらう。




「まほろん」様。

古文書も大切ですが、今、必要なのは、リアス・アーク美術館のような取り組みなのではないでしょうか。職員5人が震災直後から、写真を撮りだしたということ。福島でも同じようなことをされたのでしょうか?

学問は生きている人のためにするものではないのでしょうか。

放射線の問題は、終わりがありません。だから始めるのに遅いということはありません。

聞くことを専門とする民俗学者が、今を生きる人の声を聞き取り残すことは、きっと皆さんの心の癒やしになると思います。訪れた人の会話が止まらない空間を「まほろん」の中に、作り出してほしいです。






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