「八重の桜」、視聴率は低くても、私は今ドラマこれしか見ていない。
だから・・・私にとっては一人勝ち状態です。
だが歴史に明るくもない私は、根つめて見ておらず、「あれ?そうなのかあ」「ここどういうことだ」と思うこともたくさんあります。

で、K&Uさんのブログで、反省会をするというかんじです。

それで、ある回のあと、「なんで会津の敵は長州って言われてんだべ?・・・黒幕は西郷だよな」という気がしたので、そのことをK&Uさんに聞いてみたのですが、そこから話が広がって・・・
K&Uさんとのやりとりからです。青がK&Uさんでピンクが私。



うん、私も「八重」見てたら「どっちかというとvs薩摩が本当なんじゃないの?」という思いがジワジワと。ていうかなんか会津と長州って、もしかして似たもの同士?って気がしてきて。「仲間を殺されてこのまま降伏できるか」みたいに、理念に向かって一直線なとことかさ。目的が同じ味方同士でも、手段が違えば敵同士になってしまうというのが私の実感なんだけど、会津と長州は「目的が違う敵同士だけど、手段や考え方はけっこう同じ(だから目的さえ同じならお互いこの上ない理解者になれるのかも)」という気がしてきたよ「八重」見てたら。で会津も長州も、結局は薩摩の手の上で転がされていただけみたいな感じが(^^;) そういう意味で西郷隆盛って「やっぱし器がデカイ」と感心してしまうわ~


長州と会津が似ている、これもわかるな。この大河ををきっかけに過去の仲悪い歴史が解消されたらどうかななんて、希望的なことも考えているんだよ。私。だって長州のこと悪く思えないんだもん。

それと同時に、放射線の危険派と安全派ももしかして魂の深いところで似ているのでは?ということは、ないかなあ・・
ほら、ケンカする子供ほど、共通の関心があるからほんとは仲がいいんだって、育児のなんか相談コーナーでならったような・・・

味方の反対は敵じゃなくて「無関心」だっていうじゃん、それみたいに、大体数の、今はもう忘れているくせに「なんとなく福島の野菜はなあ」って感覚で避けているような。そういう人たちであってさ・・・ほら、山形の土を受け入れるのは知事が配慮した「何となくな不安を持つ大多数の県民」という、そっちの人たちが一番、大変なんだってこと。。。

いまだに、自主避難とかあとは危険だ危険だって言っている人たちは、本当は、「安全だよ!!科学を学ぼうよ」って言っている私たちと似ていて、どこかで何かのきかっけで手を結べるのではないかな。これほど真剣に忘れないで居られるというその1点で。




うん。ていうかそもそも「ほんとに仲悪いの??」ってのが実感。少なくともママさん世代でそんな「長州許すまじ!」なんて人は、いないと思うんだけどなあ。なんていうの、郷土のシンボルとしての地元の歴史は敬愛しても、そんなに特別地元の歴史に興味ないというか。「会津武家屋敷」とか「歴史上の人物の墓参り」とか、地元の人は好き好んで行こうとは思わないのと同一線上で(だから管野さんの本見てい驚いたのよね。「えっ同世代でもこういう人がいるんだ!」と)。

危険派と安全派は似たもの同士、あるある~~
私のイメージだと、真ん中0の数直線があって、プラスに行けば行くほど安全寄り、マイナスに行けば行くほど危険寄りだとしたら
プラス3とマイナス3、プラス5とマイナス5、みたいに、0からの距離が同じ人は、主張が裏返しの似たもの同士って感覚があるよ。なんての、主張は正反対なんだけど、その主張の仕方というか、言葉の選び方から行動様式まで、つまり根本的な考え方というか、考え方のクセ・嗜好が同じなんだよね。主張ってけっこう、上書き可能だけど、こういうクセは個人的・根本的なもんで容易に変えられないから、下手すりゃプラス3とプラス5の人同士より、わかりあえるんじゃないかとも思うよ。ただ「同属嫌悪」ってのが発生するかもしれないけど(^^;)

「何となくな不安」が一番てごわい・・・ああこれもわかる気がする~~
三谷幸喜の「12人の優しい日本人」っていう映画でさ。「被告は犯人じゃない」っていう平々凡々としたおじちゃんおばちゃんが、「なぜそう思うんだ」って、あったまいい「被告が犯人だ」側の人にさんざん問い詰められてさ、その答えが「なんとなく・・・」「見た感じそう思えないから」ついには「フィーリングかな~」(>▽<)。「だって私はあんたたちみたいに頭もよくないし弁も立たない。あとはフィーリングしかないじゃないですか!」って言うの。
三谷さんいわく「論理に強い人は論理で転ぶ。感情で決める人は容易に自分の判断を変えない(どっちがいい悪いじゃなく)」ってあって、ああなるほどな~と思ったよ。フィーリングの人は、ま付和雷同の人もいるだろけど、底では他人を納得させる言葉とかに依ってない、自分の資質とか経験とか、そういうまさに「自分で判断」してるんだよね。言い換えれば、数直線上で「論理的・科学的に考えてマイナス100」のとこにいる人と、「フィーリングでマイナス1」の人がいたら、マイナス1の方が「たかが1されど1」で、容易にプラスには変わらず、けっこうマイナス100の人の方がプラスに変わりやすいみたいな(そのかわり、今度はプラス100になっちゃって「オイオイ」みたいなことになりがちかもだけど(^^;))

で、私もまさに「フィーリングで安全」なんだよね(^^;) 自分なりに色々そう判断する理由はあるけど(「塩や水などあらゆる物質の法則だ」とか、「世の中すべて抗がん剤だ」とかね)、それは個人的な思考回路で、他人に通用するかはわからないし、めんどくさいから「なんとなく」で済ませちゃう。たぶん「なんとなく危険」の人も、そうなんだろなと。

プラス、これがけっこう重要なんだけど、やっぱし「福島が好き♪」みたいな感情がね。これが優先順位高いから、たとえ「なんとなく危険」と思っててもそれが(「なんとなく危険だからガレキ反対)みたいに)上位にくることはない。「なんとなく安全」ならなおさらよ。

てことは、福島や被災地に縁もゆかりもなくて、さほどシンパシーがなければ、自動的に「なんとなく危険」が上位に来て当然だよなと。「その場所や人に対する心理的距離感」なんて、それこそ個人的な感情だから(たとえ同郷人であっても故郷への心理的距離感は違うし)、いっくら「絆」みたいに義務感に訴えてもダメよね。自分にとってしっくり来る距離感を、各々自然と身につけてるわけだから、そういうのを重視する「なんとなく」派なら余計にね。

そういえば、2年前とか「危険だ危険だ」と関東から沖縄まで自主避難したような人たちって、今はどうなったんだろ??どれくらいの人が「そこまで危険じゃない」で戻ってきて、どれくらいの人が今も「危険」と信じているんだろ??
手を結ぶ方法って、私2つしか思い浮かばないのよね;;「共通の敵」が現れるか、「過去のこと」になるか。それとも一番効果があるのは「そこまで危険じゃない」と戻ってきた人の体験談かも??



太文字のところ、非常に大事だと思ったので、転載しました。

まとめると
1)論理的に、「危険ではない」と言っている人と、(多くの科学者のみなさん)
  論理的に、「危険だ」と言っている人(少ないですが突出してますね)は、その行動様式や考え方の作法が似ているのではないかということ。

2)一番手強いのは、論理的に危険だと言っている人ではなくて、「なんとなく避けよう」っていうサイレントマジョリティーという人たちではないかということ。

3)その大多数の「なんとなく」な人も、「福島を好き」かどうかに、「なんとなく」どっちに転ぶかが大きく関係しているのではないかということ。
※K&Uさんが書いているように、私も同じ「なんとなく」派です。メモ魔なので書きまくりますが、基本、「んだって、だいじょぶにきまってっぺした・・・」です。だから、だれかを説得しろと言われると、でもこの私のだいじょぶだべしたの感覚を言っても到底わかってもらえないだろうし・・・だからだれかうまいまとめを!?ということで、これまでも、いろいろ人様の意見を、ブログにメモしているのです。

4)福島と関係ない人が「なんとなく危険」になるのは、当然のこと
※だから、福島の人はガンガン県外に友達をつくってください・

5)+100と-100の人が手を結ぶには・・・
①共通の敵(中国とか?)
②過去のものに(風化)
③自主避難から戻ってきた人の発信

これに、危険派・安全派について、私のプラスしておきたいことも書きます。

6)「1点、こんなこと言ったから、もうコイツはダメ」というレッテル貼りをできればしないようにしたいが・・・(はい。きれい事です。難しいんだけど)
→だれもが日本の未来を考えてのことだとしたら、相手の意見が違っても、自分と重なるところはあるのではないか?というふうに考えられないものだろうか

きょう、「はやく、家にかえりたい。 福島の子どもたちが思う いのち・かぞく・みらい 」という鎌田実氏監修の本をちょっと読んだ。いい本だった。子供の作文集なんだけどね。双葉とかの。
鎌田氏というだけで毛嫌いをする人もいるでしょう。だけど、私は鎌田氏をよく知っているので、あえて言うけれど、やっぱり福島や未来を思う気持ちは私たちと同じなんです。途中でいろいろおかしなこともしているけれど。

そう思うと、菅谷市長@松本市だって、私に最初に電話をくれたときの福島や未来を思う気持ちは同じで、しかしもういまや引き返せないぐらい、いろいろおかしなことを言っているからといって、もう別枠と、遠ざけてしまっていいのか?とか、大甘なことを思うのです。

そう思うと、島薗氏だって、って思う。もう誰もが批判するので私ももう全然追っていないけれど、本当に福島や未来を陥れたいがためにいろいろ発信しているのかしら?

できたら文字や一方通行ではなく、面と向かって話し合いなどができないものでしょうか。。。(フレンドリーに)やはり文字情報だけでははかれないものがある。ツイッターでも、その「危険な話」以外の、ぽろっとしたさもないつぶやきを見て「なんかこの人いいやつじゃん」て思うことがあるし。。。人は「そこ」(危険だ!)だけで生きているのではないから。別な出会い方をしていれば?とか。

7)「分断」の解説はいいとして、その先を見ないと・・・

前の続フクシマ論について、友達からメール,大事なのではっとく

フクシマ論も面白い切り口だったね。それぞれが信ずるものにすがって、宗教に近づいているという認識はかなり核心をついているようにも思えたよ。でも、その先を考えなくちゃね。
本当なら、極論という宗教ではなくて「いつもの暮らし」っていうのが、一番信じたいものであってほしい。
そういうものって、何気なく積み重ねていくもののはず。


開沼氏は、いいことを言っていると思うけれど、なんていうか、「だからどうすりゃいいんだい?」って、この人の文章を見ていつも思うんだ・・・。社会学者?というのは、分析しかしないものなのかもしれないけれど・・・。その先は、誰の仕事ですか。私たち自身なのだよね。

それから・・・宗教論争と言われて、いい気はしない。同じにしないで、とも思う。でも歴史的に見れば、そう言われてしまうのか、とも。






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