読売連載「原発と福島」手探りの教育2より要約抜粋。
「安易な言葉は使えない」
2012年2月、飯舘村放射線教育推進委員会(委員長*大越一也・飯樋中校長)は、放射線の授業で使わない「NGワード」を決めていた。

安心
安全
危険
危ない
大丈夫
原発に反対
除染は無駄
除染は大切


大越氏「安易な言葉でこれ以上子供や保護者に余談を与えるわけにはいかない」

現場の教員から「危険なものを危険と言えない?」「安全と言わずにどうやって安全を教えるんです?」

教育長「放射線の影響についてはいろいろな基準、いろいろな考えを持つ人がいる。客観的な材料を提供し、最終的な判断ができる子供たちを育てるのが私たちの仕事です」

現場の戸惑い事例)

2012年11月。川俣町の草野小仮校舎で放射線の授業を終えた教員の悩み(川俣出身、29歳)
授業で校内を歩き、側溝や雨樋の下など放射性物質がたまりやすい場所を教えた。「気をつけましょうね」
しかし、この校舎が建てられたのは原発事故後だ。放射線量も低い。
「ここは大丈夫なんだよ」と言ってあげられたら、子供たちはどれほど安心しただろう。


事故当時川俣町で暮らしていたときに生まれたばかりの長女を母乳で育てていた。避難が決まるまでの間ずっと、「このまま村で働いていていいのか。赤ちゃんに影響はないか」と葛藤しながら。

事故と政府に振り回された村の子、その保護者たちの心情は痛いほどわかる。だから思い直す。「やっぱり『大丈夫』と言うべきじゃない。自分で判断できるようにならないと

2013年もNGワードは続ける。あいかわらず教員からも疑問の声はある。だが大越校長「神経過敏と思われるかもしれないが、それが原発事故で甚大な被害を受けた自治体の学校としての責任なのではないか。今の時点ではそうとしか言いようがない」




構成がすばらしい記事。記者の力量を感じた。

ただし、このNGワードへの取り組みがすばらしいと私は言っているのではない。というより、現場の教員と同じく、「この方法は、子供には酷ではないのだろうか」という疑義を持つ。

よく、講演などで、安心だとか安全だという言葉を言わないで、データ、事実をたんたんと示し、判断を聴衆にしてもらうのがベスト、ということはあちこちで読んだことがある。「安心とか安全とかいう講師は信用するな」という言い方すら聞いたことがある。

だから、一般的なリスク・コミュニケーションというか、一般論として最適解なのは同意する。

だけど、相手が子供であること、また、十分低いとは言え、他地域よりも若干放射線量が高めの川俣で暮らしているということ、この2点を考えるに、「大丈夫」という言葉と使うなというのは、私が教員だったら、手と足をもがれるような思いがするだろう。

子供とは未熟なものであり、信頼する人の言うことを鵜呑みにする。信頼する人から「あなたが判断しなさい」と言われるのは、しんどいのでは?

例えば、志望校だって、「あなたの好きなところに行きなさい」と個性を尊重するのがベストだよと、表向きでは言われていながら、かなりぎりぎりの線まで、進路指導はなされる。「無理」とか「ここなら入れるよ」とか・・・
たかが、中学卒業後の進路について、現実問題それが指導というものであり、データはたんたんと示すから本人が選べ、という建前になっていても、教員は、全員浪人しないような道をなんとか模索して、子供や親にそう仕向けるのが現実だ。

それを、大丈夫かどうかを一切言わない教育・・・・。

しかもテーマは進路ではなく、いわば生死だ。・・・・いいのか?

たしかにそれが向いている子供もいるだろうが・・・。逆に言うと、このような新たなる試練を与えられている飯舘の子供は、将来、見事な大人になるだろう。飯舘の大人の熱意があれば可能かもしれない。今は、それに期待するしかない。しかし、高レベルなことは、間違いない。




東京にいたときに子供の主治医で、今、府中市の教育委員長をされている崎山弘先生のクリニックから、きのうも院内報が送られてきた。月1回の院内報には、医療のことや教育のことが書かれており、いつも勉強させてもらっている。早くから、確定的影響と確率的影響についての解説、また、不安だという親のために、クリニックに放射性物質測定器を設置し、食品検体を持ち込んでもらって計ったりもしている。

今回はこんなタイトルの文章だ「安全は与えられるものではない」

よく、「安全と安心は違う」というふうに、講演などで聴く。安全は客観的なもので、安心は主観的に納得することだから、というような説明を聞いたことがある。

しかし、崎山先生は、「安全」という言葉の持つ意味について、そうではないことを書いている。

これを読んで、「安全な原発などない」と反原発の方がよく言うことに対しては、「安全な発電システムなどない」ということへの見解を聞きたいと感じる。そして、そういう概念を超越したものが原発に原罪として内在しているということならば、耳を傾けないとならないと思う。




「○●は安全ですか?」という問いかけは、数多く見られます。あなたはこの○●にどのような言葉を入れますか?医療は安全ですか?原発は安全ですか?などさまざまな言葉が入るでしょう。この全ての答えは一緒です。「○●の安全性は保証できません」

安全という言葉の意味するものは、危険がない、リスク=ゼロのことです。これはあり得ない話です。2つの薬があれば、どちらがより安全か(危険か)と比較することはできますが、これは安全な薬ですということはできません。

最近はあまり見かけなくなった路面電車ですが、乗降するために道路の中に一段高くなった島状場所を「安全地帯」と言います。どうみても、すぐ脇を走り抜ける道の真ん中にあって、「安全」とは思えませんが、自動車が来ない規制になっているので、「安全地帯」なのです。どんな分野の世界でも「安全域」は必ず「危険域」と隣接してます。絶対に安全というものは皆無であり、目指すこと、追求することはできても絶対安全は存在しません

では「○●は危険ですか」という問いかけはどうでしょう。医療は危険ですか?学校は危険ですか?原発は危険ですか?今度は回答が一緒になりません。「はい」と答える人と「いいえ」と答える人が混在します。これはリスクの受け止め方が違うからです

「犬は危険ですか?」目の前に大きな犬がいて、吠えながら今にも飛びかかりそうにしている状況であれば、「はい、危険です」と答えたくなります。チワワが1匹しっぽを振って目の前にいるなら「いいえ」と答えるでしょう。だけど子供のころに犬にかまれたことがあれば、「犬は怖いから危険」と思い込みます。目の前にかわいい犬の写真があるだけなら「危険とは思わない」と言うかもしれません。
犬という言葉に代表される危険性は一定ではなく、同じ犬が目の前にいても受け止め方は違うのです。

安全は与えられるものではなく、自分でリスクが小さいと感じたときに「これは安全である」と信じているだけです。医療も、教育も、政治も、先導された危険性や安全性に惑わされないよう気をつけたいものです。




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