雑誌「望星」2013.3月号、特集「震災2年、東北からの声」からご紹介です。
ぜひ多くの方に、図書館でリクエストして読んでいただきたいですね。
リクエスト無理な方のために、・・・・記者座談会「福島民報×岩手日報×河北新報」 地元紙の記者が語る被災地の現在」から、福島民報社の松崎俊一・南相馬支社長の談話を中心に要約抜粋します。
このほか、赤坂憲雄氏や和合亮一氏らの特集もあります。薄い雑誌ですが読み応えがありました。

少し大きな紫字は原文の小見出し。赤字は私がつけた強調。

司会の朝日記者は、岩手県遠野市が気に入って移住した方のようです。最後の段落で風評被害にも触れていますけどほかならぬ朝日自身も風評を作り出している、ということについて言及してほしかったですね。同じ朝日でも、こういう視点を持っている記者こそが、部下や同僚、上司に、「東北の心」を講義してほしいものだと願わざるを得ません。この方が最後に「この記事を、東北以外の人が一人でも多く読んでくれることを願っています」と言っているようなので、がんばって打ちました。




司会  木瀬公二(朝日新聞社盛岡総局 1948生)
出席者 松崎俊一(福島民報社南相馬支社長 1950生)
    畠山秀樹(岩手日報社釜石支局長 1967生)
    古関良之(河北新報社報道部震災取材班キャップ 1966生)

3・11の新聞社

・・・(司会、以下略)震災当日は。

松崎 支社で原稿を書いていました。南相馬支社は、私と若い記者の二人だけ。震度6弱の激しい揺れに津波が心配になりました。管内は長い海岸線を抱えているからです。災害対策本部が立ち上がるだろうと、海岸から6キロの市役所へ向かいました。しかし電話が通じない。道路は寸断されている。浜の地区が津波で壊滅したという一報以外、何も入ってこない。じっとしていられなくて沿岸に向かい、老人ホームの救助活動を取材しました。

南相馬市では636人が亡くなりましたが、当日はまるで全体像が見えない。ましてや原発事故が起きて、南相馬が復旧作業や取材の最前線になるとは思いもしませんでした。

(河北新報では、紙面に生存者名を載せたいと思ったが、避難所に貼ってある避難者名簿を「新聞に載せるから貸して」とはとても言えないし、自治体も避難所を回って名簿を集める人出もガソリンもない、ということで断念。しかし岩手日報は、震災3日目から3週間、避難所ごとの名簿を載せた。紙面を避難所に届けると、皆でボロボロになるまで回し読みをしたという)

松崎 福島では避難者名簿などとても作れませんでした。住民は避難場所を転々とする日々です。自治体は居場所を把握できない。南相馬市では当初5000人が、いまも100名以上の人がわかりません。

忘却の始まりへの危機感

・・・最初の一年を振り返るとどうでしたか。原発事故を抱えることになった福島は、岩手や宮城と事情が異なりますね。

松崎 沿岸部の人々は11日、大津波警報を受けて続々と避難所に逃げました。ほとんどがすぐ家に戻るつもりで上着を羽織り、小銭を持つ程度、着の身着のまま。しかし、翌12日午後3時36分に原発一号機が水素爆発し、20キロ圏内が警戒区域となった瞬間、全域の市民の「漂流」が始まりました。南相馬市役所は、原発の北25キロ、市域は原発の北10キロから40キロに広がります。市では希望者は避難するようにと大型バスを計40台ほど用意しました。町から人が消え、バスに乗った人たちは新潟や群馬に向かい、多くの人が自主避難して各地を転々とすることになった。

我々も福島市の本社から二度避難命令を受けましたが、18日から南相馬に戻りました。原発立地自治体の双葉町や大熊町を含む双葉郡は全町村役場が避難したのに対して、南相馬市は逃げないという判断をしました。

原発はいろんな恨みつらみをもたらしました。事故直後の放射線量を公表しなかったことに対する怒りと不満。コンパスで書いたような線引きの理不尽さ。自宅や工場の真ん中で切られた人は泣くほかない。そこに賠償金額が絡みます。南相馬市は「警戒区域」「計画的避難区域」「屋内退避区域」その後に放射線量が局地的に高い特定避難勧奨地点・・・いわゆるホットスポットが指定され、さらに何も指定のない区域と、市域が分断された。そこから市民の間で差別感情なども生まれました。

・・・放射線の心配がされていたなか、取材続行に不安はありませんでしたか。

松崎 私はもうじき63歳です。定年で退職するつもりが、社長から「もう少しやれよ」と2010年4月、南相馬市社長の辞令を受けた。そこに原発事故が起きた。報道するのが新聞記者の使命と腹をくくりました。恐怖感はありませんでした。もう一人の記者は結婚を控えていましたから、余り放射線を浴びさせたくない。高線量の場所はみな私が行きました。

一番高かったのが飯舘村の80マイクロシーベルト。秋に受けた内部被曝線量を計測するホールボディーカウンター検査では1600マイクロシーベルト、安心しました。

・・・それからさらに一年、いま書かなければならないことは何だと考えていますか。

松崎 地震と津波、原発事故の被災県で最も読まれている新聞として、起きていることは全部報道しようと考えてきました。福島県ではすべて現在進行形ですから、総まくり的に膨大な記事を書き続けて、連載も常時4~5本併行していました。阪神・淡路大震災のときの村山首相のように、特別措置法を発動すればもっと早く復興できたという思いが強いですね。

まず、南相馬では家が足りません。人口71500人でしたが、5000人以上が住民票をよそに移し、実際に住んでいるのは5万人弱。仮設住宅が約3000戸。ホテル・旅館は除染や復旧工事の作業員で満室です。帰ろうにも住む場所がない。差し迫った状況なのに役所は平時の手続きでしか物事を進められない。恒久仮設住宅の建設許可も通常の手続が必要でした。縦割り行政の弊害もあります。施設の管轄省庁によって除染の手続きがバラバラ。復興庁ができても動きが早まっているように見えません。将来をどう描くかは重く、難しい。・・・というようなことを書き続けるしかないでしょう。

相馬市役所では最初の一年で職員が80人ほど辞めました。しかし、住宅に関する手続きをはじめ、地震の復旧作業関連など、書類にしろ図面にしろ、作業量はゆうに平時の3倍も4倍もあるでしょう。

ふるさとの値段はいくらか

・・・各自治体では、町作りの基本計画ができつつある時期ですね。

(河北新報や岩手日報の記者が、高台移転などまちづくりや、災害公営住宅の入居の話で、住民と行政の意向がなかなか合わないという問題点を指摘)

松崎 福島は町づくりや復興の段階ではありません。ほとんどが警戒区域に指定されている(※2013年3月時点)双葉郡はまったくの手つかず。南相馬にしても常磐自動車道、JR常磐線、国道6号は原発事故でストップして、開通の見通しが立たず孤立の状態です。とくに南部の小高区は、海側は地盤沈下、中心市街地は埋立地で倒壊した家屋が多く、山沿いは放射線量が高い。上下水道の復旧に一年は要するでしょうし、壊れた家屋を片付けて新市街地を造るにはとてつもない時間がかかります。

事業所は国から4分の3の補助金が出て元気な企業は工場増設などができます。でも動けない業種も多い。何せ人が戻っていません。去年8月の有効求人倍率は1.8倍超。銀行でさえ半年かかって遠くから人を呼んでくるんです。一見何事もなかったように見える街も人口構成が激変しています。小学生は5割弱、中学生5割5分、高校生7割しか戻ってきていません。子供と一緒に母親が避難しているので、女性が少ないですね。看護師や介護スタッフ、事務員などが不足しています。ソーラー製造会社が本社を南相馬市に移して500人規模の雇用を創出すると言っていますが、果たしてどれだけ人が集まるか。

また、旅館、ホテルは満杯、飲み屋も儲かるけれど、一般商店は売り上げがない。除染作業が本格化すると5000人規模で作業員が入ってきます。作業員用の仮設住宅を建てるとなれば、また混乱が生まれるでしょう。

・・・先が見えない、希望が見えない。一番辛いパターンですね。

松崎 根っこにある問題は、自分の家に戻れないということです。とりわけ70代以上の人は「元気なうちに帰りたい」という思いが強い。そこに賠償が絡んで、ものごとを複雑にするんです。ふるさとの値段はいくらなのかと。復興に向かうためには「賠償はしっかり要求して、復興は別の問題として頑張る」という気持ちが大切だと思います。個々の意識は単純ではありません。除染した土の仮置き場の選定など、「うちには置きたくない」と住民のエゴが剥き出しになってします。仮置き場ができないと除染が進まない、復興できない。政治のあり方を含めて、日本人の精神はここまで墜ちていたかと暗然とします。

命と地域を守るには

・・・震災で家を失った人は、「ふるさとを再びつくりたい」と望んでいるんじゃないでしょうか。津波の威力を後世に伝えるのに、教訓を伝承する視点、震災遺構が必要ですね。

(岩手の津波記念碑や、気仙沼の「勉強する会」などが紹介)

松崎 福島は岩手や宮城と違って、近代には津波被害がほとんどないんです。1960年のチリ地震でも検測所の計測は30㎝ぐらい。津波は来ないものと思ったから、「逃げろ」と言われても逃げない人が多かった。でもおそらく1000年後には来ます。地質調査では相馬市の内陸で約1000年前の貞観大地震と、そのまた1000年前の大津波の痕跡が見つかりました。1000年のスパンで大津波が来る。数十年もしないうちに風化する教訓を1000年もたせるには、どうすればいいのでしょうか。

(ここで、河北新報の記者が震災前の防災報道について、地域それぞれの事情に合わせて記者が地域、住民に介入し、広く浅くという一般的な記事よりも、狭く深く、地域ごとに住民の実践的な行動に結びつく報道を目指す。住民の意識改革を促す」と話す)

風評被害に立ち向かう

・・・ボランティアが手伝える部分はまだまだあるし、何の仕事をしなくても、現状を見て、現地の人と話をして、何か食べて、買って、泊まってくれるだけでいい。知らない人がそこにいるだけで、被災地の人たちは「まだ見捨てられていない」と思えます。震災直後、東京からボランティアが100人来たら、福島で10人、宮城で70人、岩手で20人降りるという比率を耳にしました。今はどうですか。

松崎 ボランティアが入る時期は確かに遅かったです。しかしいま、ことに心のケアに関する団体は数多く継続して入っていますよ。当初は県内や関東の人が多かったけれど、今は関西、四国、九州の人が多いように見受けられます。関東では風化し、関心は遠くのほうに移っているのかもしれません。

このごろは見学者も多いですね。原発の警戒区域の手前まで行って眺めてくるバスツアーもあります。地元の人は現状をわかってもらえるのならそれでいいと思っています。

・・・放射線の影響から「女の人は福島に入らないほうがいい」なんて噂が飛びましたが、実際はどうですか。

松崎 中核病院である南相馬市立総合病院はホールボディーカウンターをいち早く導入しました。病院に3台、ほか市内に2台あって、10000を超える検証結果を蓄積しています。医師が積極的に講演をするので、努めて記事にしていますが、南相馬で流通する食材を食べ、水道水を飲んでも大丈夫だそうです。

行政は公表をしたがりませんね。農林水産物の8割5分以上は放射性物質不検出。安心して住んでよい場所だと南相馬の人は知っています。だけど市外に避難した人にはそれが伝わらない。だから放射線におびえて帰ってこられない。

・・・瓦礫の受け入れや農産物の問題など、風評被害という問題で言えば、原発事故は被災3件の問題です。

岩手日報記者 岩手の瓦礫の受け入れを早い段階で石原都知事が表明してくれたのはありがたかったです。一方、新潟県内では複数の自治体が大槌町の瓦礫受け入れを表明したのに、一時新潟知事が難色を示したことで対応がごたつきました。岩手の瓦礫は津波でやられた建物などの残骸であって、放射性物質は検出されていないのに危険性をほのめかすとは、知事みずからが風評を発しているようなものでしょう。憤りを感じます。全国の皆さんには、安全性は数値が証明しているとお伝えしたい。

それと、想像力を持ってほしいとお願いします。家の近くに原発があり、それが壊れて放射能が漏れて、どこかに避難しなくてはならない、どこかに瓦礫を運んで処理しなくてはならない。自分がその立場になった場合を想像していただきたいのです。

・・・最後の質問。地方紙と全国紙の役割の違いはなんでしょうか。

松崎 福島民報は読者全員が被災者、記者も被災者です。そこが全国紙と異なります。南相馬では新聞販売店も避難して新聞が入手できない時期が約1カ月ありました。ガソリンを含めた物流が止まり、銀行も郵便局も宅配便もストップするなか、新聞を1000、2000という単位で運び入れて市役所や避難所で配りました。毎朝6時頃、庁舎を一回りするほどの行列ができました。テレビで報道されても細かいことはとても伝わらないし、量的にも満足できないのでしょう。新聞の役割が見直された、信頼されていると実感しました。その気持ちを忘れずにやっています。

岩手日報記者 私は基本的に全国紙と地方紙の役割の違いはそうないと思っているんです。全国紙は読者が全国にいて、地方紙の読者は県あるいは地域単位だということでしょう。そのなかで、岩手日報は立ち上がる人たちの背中を押しながら、一緒に歩み続けるしかない。岩手県民が何を知りたいか、何を読みたいか、岩手がどうあるべきか、愚直に報道していくしかないと思います。

河北新報記者 震災後の3月14日の河北新報一面の見出しは「犠牲 万単位に」でした。全国紙は一面の見出しに「死者」という言葉を使いましたが、河北新報の整理記者はどうしても「死者」の二文字を使えなかった。また、「福島では地元に帰りたくない人が3割いる」というアンケート結果については、全国紙は「3割もの人が帰りたくない」とショッキングにとらえ、我々は「7割はやっぱり帰りたいんだな」と共感する。実際、全国紙の見出しは「3割が戻らず」。我々は文章も見出しも「戻りたい」というほうを前面にして表現する。とりわけ沿岸部の記者は被災しながら取材しているという当事者意識が強いですね。「自分が伝えなければだれが伝えるのか」という、新聞記者としてまっとうな問題意識に一人一人が向き合った。地域についての着眼は、全国紙の記者より地域に寄り添い、深く考えていると思う。首都直下地震が起きたとき、全国紙は地方紙になれるだろうか、と思うことがあります。

・・・この記事を東北以外の人が一人でも多く読んでくれることを願っています。皆さん職場にとんぼ返りでしょう。忙しいところありがとうございました。
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