キクマコ先生の「科学と神秘のあいだ」を読みました。震災前に書かれた本です。
「科学」の対語として「神秘」を当てており、キクマコ先生が白石一文「神秘」を読んだらどういう感想を持つか、聞いてみたいです。神秘を奇跡と言い換えてもいいかもしれないのですが、キクマコ先生は、「奇跡と思ったことは実は確率の問題」のようなことを言っています。たまたま何千分の一の確率で生じたことを「奇跡」と思ってしまっただけ、というような。大事なのは、そこに因果関係があるかどうか(≠相関関係)、再現性があるかということ。

それでラストのしめは以下です。
「神秘は人の心の中にある。だから科学的で客観的なものの見方と神秘は決して両立しないものじゃない。だいじなのは神秘の領分と科学の領分に折り合いをつけること」
災後、ため息が出てしまうような、情けない出来事がたくさん起きています。科学的立場を主張する側と、放射線の怖さを主張する側とが、折り合いをつけられなくなったからでしょう。どちらにも言い分はあり、どちらも一歩引くことをしなくなったのが、災後の混迷だと私には見えます。

キクマコ先生は自らを「ゆるふわ左翼」としています。今、左翼は「リベラル」と訳されますが、リベラルというのは本来、保守性にとらわれず、いろいろな意見をだれもが出し合い、相手の意見を尊重する論者のことであったと思うのです。でも、今の「リベラル」という方々の多くは、自分の主張を絶対だとして押しつけ、平和主義者と言いながら、戦闘的です。さらに、平和主義者と言いつつも、「自衛隊が南スーダンから帰ってきてよかった、大切な日本の隊員のみなさんを危険に晒すわけにはいかない(室井佑月が週刊朝日のコラムで書いていた)」とする、・・・しかし、はて? 南スーダンは危険な場所?でも、そこに暮らしている人もいるはずでしょ?・・・とその「平和」の概念の狭さを不審に思います。「現地が危険だからと言って、日本人を死なせないために手を引いていいのか?そんなの日本ファーストで、ほんとの世界平和にはならないのでは?」というリベラルな人が目立たないのが腑に落ちません。三浦瑠麗氏は「紛争地域の人にも真に思いをはせる平和主義への転換を」(読売20170403)と、自国の平和だけを訴えても、それは世界の常識からかけ離れているとしています。

そういう意味では、キクマコ先生は、たしかにリベラルです。震災直後に、「野呂美加さんの伝道の手法をわれわれも学ばなければならないな」と書いていたのが、私は強く印象に残っています。つまりは、異なる意見を聞く耳をお持ちだということです。
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