JAM THE WORLD 「萱野稔人×国分功一郎「哲学の話をしよう!」より。対談後半部分文字起こし。(20170413)
「気鋭の」と称されることの多い哲学者2人の対談です。聞いていたのですがおもしろかったので、ラジコのタイム&エリアフリーで聞き直しました。
哲学と宗教との違いについては、「合理的」という言葉は「科学的」と言い換えることができるかもしれないと思いました。
震災後のさまざまな人々の「溝」を解明するカギが隠されている感じがします。




◆信念とは?

萱野「国分さん信念ってありますか?」
国分「ありますよ、ぼくは」
萱野「どんなものですか?」
国分「困っていた人がいたら助けるとか、学生と向き合うときは必ず一人一人を見るとか。学生一般として見ないとか。そういうことを思っていますよぼくは」
萱野「人格者ですね」
国分「いやいや」
萱野「ではこういう場合どうしますか。私の知り合いで、夜お酒飲んで帰ってきたら、女の人が酔っ払いに絡まれていて、危ないなと思って、『やめろよ』って言ったんだそうです。そしたら酔っ払いが『なんだよ』って絡んできたんだそうです。そしてもみ合いになったときに、相手がころんじゃったんです。そしたらちょうど駅員が来て、『何やってんだ』って。そしたら酔っ払いが『こいつが俺をぶっ飛ばした』って。『いやそんなことないんだ、助けただけだ』って言って周り見たら、その女の人は逃げていなくなってしまった。
こういうこともありうると考えた時に、国分さん、その信念を貫くかどうか」
国分「それはでも場合によるでしょ」
萱野「(笑」
国分「だってそのときに駅員さんを呼びに行ったほうがいいかもしんないわけだし。信念があるってことは、四角四面に決まりきった行動をするってことじゃないんですよね」
萱野「なるほど」
国分「信念ていうのはむしろ、自分が何か弱くなってしまったり、自分がくじけそうになった時に、むしろ、自分を助けてくれるものなんですよね」
萱野「はい」
国分「見て見ぬふりをしようとしている自分がいるときに、あ、自分の中にもこういう信念があったじゃないかと思うと、勇気が出てきたりするわけですよね」
萱野「ちょっと、かっこいいじゃないですか(笑)、国分さん」
国分「いや(笑い)」
萱野「自分に勇気を与えてくれるものこそが信念なんだということですね」
国分「うん、そうですね。そう思います」
萱野「それはけっこう、大事な指摘ですよね。でも、私もよく『最後は道を切り開いてくれるのは度胸なんじゃないか』みたいな話を学生にすることがあるんですけれども、勇気持つってけっこう大事じゃないですか。これ、でも、なかなか難しいですよね」
国分「難しい。特に、一人だと難しい」
萱野「うん・・」
国分「僕は、信念というのはやっぱね、誰かと共有すべきだと思うんですよ」
萱野「うん」
国分「誰かと共有すると、あいつもそれを持ってくれてるんだって、やっぱり自分にすごくその支えになって勇気を持てると思うんですよ」
萱野「なるほど・・・。ただね、私それで言うと、まあ私、40代後半過ぎましたよ。40代後半過ぎると、どんどん友達減ってくんですよね」
国分「(笑い)・・・・」
萱野「共有できる信念・・・、信念を共有できる友達いなくなるっていう場合、どうしたらいいんですか」
国分「う~ん・・・まぁ萱野さん、僕がいるからまだいいじゃない」
萱野「優しいなあ」
国分「(笑い)」
萱野「国分さん優しいなやっぱり」
国分「いやいや」
萱野「そこも信念のなせるワザですよね」

◆愛とは・・・

萱野「もう一つ、リスナーからのメッセージいきたいんですけれども、・・・『私が気になっているのは、愛って何、ということです。言い換えれば、どんな言葉が当てはまるでしょうか。私は、ありがとう、だと思います。国分さん萱野さんはどう思いますか』いうことで・・・、愛とは何かというね」
国分「来ましたね」
萱野「これは、また難問ですよ」
国分「はい」
萱野「ただ、哲学って、愛とは何かということについて、けっこうずーっと論じてますよね」
国分「はい」
萱野「philosophyのね、sophiaっていうのはもともと愛っていう意味、もともときてますから」
国分「あ逆、逆」
萱野「あ、逆。ごめんなさい。sophyは知ですよね、philoが」
国分「philein」
萱野「phileinが」
国分「好き ですね」
萱野「はい。だから、もともとこう、『知への愛』ということが、哲学の根本にあるということで、愛ってずっとテーマだったじゃないですか」
国分「そうですね」
萱野「その分、でもやっぱり難しいですね。我々ね」
国分「難しいね、だから・・・スピノザが言ってたことを少し噛み砕いて言うと、たぶん愛というのはその人が存在しているということそのものを喜びと感じられること、じゃないですかね」
萱野「・・・もう一度言ってください。今の、けっこう難しかったですよ」
国分「その人がいると」
萱野「うん」
国分「存在していると」
萱野「うん」
国分「そのことそのものを喜びとして感じられるということ」
萱野「ああ~」
国分「だから逆に言うと、愛の反対は憎しみでしょ。憎しみは何かっていうと、その人がいるということそのものが許せないということですよ」
萱野「なるほど」
国分「破壊したいということですよ」
萱野「なるほど。こうね、存在を受け入れられるということ」
国分「うん」
萱野「私ね、愛ということで言うとね、ラカンていう人いたじゃないですか
国分「こりゃまた難しいところを」
萱野「フランスの精神分析から出発して哲学やった人、あの人がね、…私あの人あんま好きじゃないんですけども」
国分「(笑い)」
萱野「1個だけ好きなところがあって。『愛とは必然』だというふうに」
国分「お~」
萱野「あの、nécessité、フランス語でね、まあ、necessaryと言ってるんですよ」
国分「ああ~」
萱野「必然とも訳せるし、必要だとも言ってるんですけども、こう、例えば、相手から必要とされてるって感じられるって、けっこう愛に近いなって感じるんですよね」
国分「うん」
萱野「あるいは自分が、相手を必要とするとか、必要とされるとか、それによって、自分がここにいていいんだっていうね、ある種の必然性。フランス語でも英語でも必要と必然性っておんなじ言葉じゃないですか」
国分「そうですね」
萱野「自分が必要とされていると考えられるときに、必然、いてもいい、自分がいる必然と感じられるっていう」
国分「うん」
萱野「けっこうねこれの言葉って好きで、必要とか必然を感じられる時って、私たちは愛を感じてるんだろうなって」
国分「ああ~」
萱野「思うんですけどね」
国分「なるほどね、それはいいですね、さっき僕が言ったことと通じる感じですね」
萱野「そうなんですよ。ええ。やっぱり、存在を受け入れるか、受け入れないかっていうのは、ある種の必然的なものととして、我々認め合えるかっていうことですからね」
国分「そうですね」
萱野「ようはだって、お前、いてもいなくても一緒だから・・・って言われるのが、一番ね、こたえるわけじゃないですか、我々」
国分「一番こたえる。一番こたえる」
萱野「ね。お前なんかいなくたっていいんだよって」
国分「うん」
萱野「それでやっぱり、例えば、子供だったら、親から、あんたが生まれてきてほんとによかったなっていうことを、まあ、言外でも言われることで、やっぱり精神的な安定、得ますよね」
国分「そうですね」
萱野「そういうのが愛の、たぶん、根本なのかなって思いますけどね」
国分「ぼくだからさっき、学生に対してね、学生一般として見ないで、一人ひとり見るっていう、まあ、心がけているんですけど、それもおんなじなんですよね。特に新入生なんかは、不安だしね、そういう姿勢で接してあげるだけでね、彼ら安心感が出てくるしね」
萱野「うん」
国分「まあそれは、一人一人を愛するっていうわけじゃないんですけども、それは無理なんですけれども」
萱野「俺に任せろって感じですか」
国分「そこまではいかないですけれども・・・、まあ、この接するときはね、そういう一人一人を見てあげたいなって思いますよね」
萱野「うん」

◆宗教と哲学

国分「でも、これだから愛の問題って、ほんとに哲学的に突き詰めるとどこに行くかっていうと、やっぱイエスですよね。・・・だから一人一人に対して、愛を持つっていうね。そういう、ほんとにまあ、極限的なとこまでやったのがイエスで、ここになるとまた難しい問題になってきます」
萱野「難しい問題ね。・・・まあ、宗教と哲学って、けっこうね、近い、近づいていくとも言われますけれども、逆に、違いってどこにあると思います?」
国分「う~ん」
萱野「同じ愛を語って、同じ愛を志向していたとしても」
国分「うん」
萱野「じゃあ、違いってなんなんですか」
国分「あのねぇ・・・・聖書を理解したからクリスチャンになるんじゃなくて、クリスチャンだから聖書が理解できるんだっていう言葉があるんですよ」
萱野「うん」
国分「まあ、考え方があるんですよね。・・・それはやっぱり、信仰ってものは、単にやっぱり知識とか理解には、還元できない、何かこう、精神の中でのジャンプがあるんだと思うんですよね。何かね」
萱野「うん」
国分「きっとね。何か、何かジャンプがある」
萱野「うん」
国分「だから、そのジャンプを経てるかどうかっていうことが、やっぱり信仰と、知識の体系としての哲学と、やっぱちょっと分けるんじゃないかなって、僕はぼんやりと考えているんですけどね」
萱野「う~ん。その、ジャンプって何なのってなったときに、突き詰めたらどうなるんでしょうね」
国分「なんなんでしょうねえ・・・・やっぱ、何かこう、その自分の、深いところにある欲望に基づく、何かこう信仰が欲しい、何かこう超越的なものがほしいっていう気持ちじゃないかなあ」
萱野「なるほど」
国分「それはやっぱりでも、否定できないし、いわゆる宗教に入ってない人でも、そういうものはどこかあって、それはいろんな形で満足させてると思うんですよね」
萱野「はい」
国分「それは何か、・・・もしかしたらスターを歌手とかを好きになることかもしれないし、だれか小説家をスターみたいに追うことかもしれないし、あるいはあこがれの人がいるっていうことかもしれないし、何かこう、やっぱり超越的なものに対するあこがれの気持ち、やっぱりこれは誰にでもあるわけで、それがその明確な信仰になるか、それともまた別の仕方でそれを満足させるかっていう違いなのかなーってちょっと思ってますけどね」
萱野「なるほどね」
国分「だいぶ難しいとこだな。ほんとに。ほんとに難しい問題ですね」
萱野「なるほど。あの、例えば信仰の場合って、聖書が最後答え、聖書に書いてあるから正しいんだって言えるっていう部分、あるじゃないですか」
国分「うん」
萱野「これと、哲学って、そういったものと場合によって対立することありますよね」
国分「ありますよね」
萱野「国分さんはでもどちらかというと、宗教も気持ちがわかるというか、むしろ哲学はそれを理解するように努めなければならないという立場ですか」
国分「う~ん、僕ね、宗教に対しては、むしろ、昔は割とこう、非常に距離をとってたんですけれども、今はむしろ哲学を通じて、なんでやっぱり人に宗教的なものが必要なのかということを理解したいし、説明しなきゃならないっていう立場になってきましたね、最近は」
萱野「うん」
国分「やっぱり、さっき勇気とかね、信念の話、しましたけれども、やっぱり人間が信念をもって行為していてもね、やっぱそれを支えてくれる、さらに信念を支えてくれるものをね、やっぱり欲しくなるんですよね」
萱野「なるほど」
国分「それはね、さっきはぼくは、友情とかね、言いましたけれども、そういうときもあるかもしれない。でも、それだけではうまくいかないときもあるでしょうね。だから、やっぱり、哲学的に、つまりある種合理的に説明ができることだと思うんですよね」
萱野「あー、なるほど」
国分「宗教的なものが、なぜ必要というかね、必要になって、僕らが、時折それを欲するのかっていうね、やっぱりそれは哲学的に説明できるし、ぼくは哲学の方も、理解しようとしなければならないっていうふうに最近は思いますね」
萱野「そうですね。どんなに、例えば外から見て非合理に見えるものでも、内的なロジックというものを解明していく、それで理解をしていく
国分「うん」
萱野「もちろんそれによって、同じ価値観に立つわけじゃないけれども、それを理解していくっていうのは、一つやっぱり哲学にとっては大事な姿勢というかですね、言葉使って物事を解明していくのが哲学だって、我々最初話しましたけれども、そういう態度が、言葉を使って考える者には必要になるっていうことですね」
国分「そうですね。だから、ある意味では否定とか肯定の前に、まずは理解するという」
萱野「うん」
国分「ロジックを理解するという」
萱野「うん」
国分「それがまあ、一番大切ですよね。哲学において」
萱野「なるほど。最後、ねえ、なかなか最後、話うまくまとめてくださいましたけれども。・・・国分さん、きょうはどうもありがとうございました」
国分「ありがとうございました」



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