ラジオで親鸞の教えを伝える「なぜ生きる」という佛教法話を聞いて、本も借りてみました。
「人の苦しみはすべて、この先に死があるから」「いくら愛する人がいてもいつか別れるという苦しみが待っている」この2つが、私のかねてよりの問題提起でした。「なぜ生きる」では、前段でこの手の話題を具体例を挙げてさんざん書いており、ならば後段にはこの回答があるのだろうと期待したのですが・・・・納得する回答には、さっぱりたどり着きません。ネットにもいろいろ出ていますが、よくわかりません。

実家のお寺さんが浄土真宗なので、祖父母のお通夜・葬式・法事のたびごとにご住職が蓮如上人の「白骨の章」を読み、仏教のありがたい説教をしてくれました。私は大好きな祖母が死んだとき高1で、死んだことを受け入れられませんでした。自分の最大の理解者の死というのは、自分の中の小さな死でもあると、今振り返って思います。「すでに無常の風きたぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ち・・・」というくだりを何度も聞きました。聞くたびに、祖母のぽってりとしたピンクの顔を思い出します。

この文章では、さんざん人のはかなさを連ねた後、ではラストで救いはなんだというと「されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、 阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり」、たったこれだけです。これはいったいどういうことでしょう。でも、仏教を勉強すればこの、ばあちゃんの死でつらい自分が救われるかも、と、こっそりお寺のお坊さんのところに行って、話を聞こうかと思い、門の前まで行ったことがあります。でも、勇気がなくて帰ってきました。それを親に言ったら、「二度と行くな。宗教にかぶれるなんて」といなされました。

あれから30年以上たち、私もあのころより一層死が近づいたのですが、今、この懐かしい白骨の章を読んでも、やはりさっぱり意味がわかりません。「後生の一大事」とは、どうやら「死」「死後の地獄の苦しみ」のようです・・・???それから逃れるために、念仏しろ、としか読み取れません。

「なぜ生きる」を聞いて、親鸞上人の教えに救われたという人がたくさんいるみたいですが、ようは、「死後の世界を信じる者は救われる(そのため念仏しろ)」というふうにしか言ってないように感じます。「死後はゼロ」」と思っている私にはどうもなじめません。。。どうなんだろう。
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