國分功一郎「中動態の世界 意志と責任の考古学」より。。
中動態とは、能動態でも受動態でもない、境界の状態のことだそうです。新しい概念のようですが、昔はここが主であり、今も、事象はこういうものであふれているというのが國分氏の考えです。
「強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している」・・

私は、夫の仕事の都合で引っ越しを数回繰り返しています。「えらいね。だんなさんの決めたことに家族みんなでついていくんだもんね」と、何人かの友人に言われたことがあります。そのときに「・・・ん?」と思っていました。
これまさに、強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが、同意している中動態。だから「えらいね」って言われてもピンとこない。自分から決めたのではないけれど、家族で引っ越しというのに同意したのは自分だから。

國分氏は「完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということ」であり、それが中動態の世界を生きるということだとしています。自由に近づくには、たとえば、「その人生を理解してくれる仲間」「自らの愛に素直に向き合うことを教えてくれる出会い」「自身による自身の人生の重みの認識」などの手立てを挙げています。完全な強制とは、完全に自由がないといことであり、完全に責任もないということです。

以前、武田徹氏が書評で「まさに自主避難もそうだ」と書いていました。でも読了後は、私は、そうかな?と思いました。

國分氏は、カツアゲされてお金を自ら出した場合、アリストテレスの考えだと、それは「自発的行為」となる、としています。すなわち、これは世間一般が考える、自主避難についての「自主」「自発」の見方と同じです。カツアゲでは、「お金を出さない」という選択もあるからです。しかし、カツアゲされたのだから、お金を出さなければ、殺されるかもしれないというリスクを飲んでいることになります。これを自主避難で言うと、つまりは避難しなかったら死ぬかもしれないというリスクです。

でも自主避難をめぐる問題に関しては、避難をしないほうが多数派でした。また、自主避難(を、今も続けること)は科学的には間違いといえるでしょう。そこにとどまって生活しても、将来にわたる健康影響はほぼゼロということが今はわかっていますから。
だから、震災直後に関しては中動態だといえるでしょうが、自主避難を今も続けるということについては、かなりの部分で自発的ではないかと思います。ということで、中動態という言葉でハクをつける武田氏の言い分には賛同できません。國分氏の本を読んでからは、そう感じました。

私はそれよりも、強制的に避難を指示された人について、中動態が使えるのではないだろうか?と、頭をかすめました。そんなことを言ったら、叱られるでしょうか。あの時、「避難するということ以外に選択肢はない」は、正しいのでしょうか。指示されても実は残った人がいるということは、例外だとしても・・・。法的にひっかかるのでしょうか。いろいろ考えるとわかりません。アリストテレスの論法でいけば、「避難しろ」と命令されて自分で車を運転して・自分から迎えに来たバスに乗るという選択をして、家から避難した、という時点で、「自発的」と定義されてしまうからです。・・・・でも、あれが自発的な避難だったとは、言えるわけありませんよね?

だったら、それこそが中動態なのだと思うのです。あれを「強制的」「自分に責任はない」と「受動態」で考えるから、怒りや補償やいろいろのことが止まったままなのではないんでしょうか。(屁理屈でしょうか?でも、だからこそ今、中動態の概念を考えよう、と國分氏は言っているのだと私は読み取ったのです)

それは置いても、6年たって避難指示という強制が解除になったのに、戻らない人が多数という点にスライドさせます。避難継続か終了かの選択は、本人の意思に任されている、ただ、自分で自主的に避難継続を望んでいるわけではないのだが、(インフラ不整備や仕事の確保等やんごとなき理由のために、仕方なく)帰らないことに同意している=この状態はまさに中動態ではないんでしょうか。

武田徹氏には、強制避難について、この本の書評にしてほしかったものです。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://leika7kgb.blog114.fc2.com/tb.php/1237-8eddf1a5