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大事だと思ったところを抜粋しておきます。
◆「親鸞は結局、称名念仏=言葉だけがいいのだと言っていると思います。名号を称えることの中にすべての救済が含まれる。阿弥陀如来の誓いがあるのだから、その誓いを信ずるかぎり、十遍でも念仏を称えれば、必ず浄土へ往けるんだという考えです。言ってみれば、信に近づけるのは言葉だけではないか、言葉で名号を称えることだけが信に入るので、その他のあらゆる修行は意味がない、ただ頼みとするものは言葉だ、それだけが信じられると言っているのだと思います。

別の言い方をすると、自分の力で何か善い行いをしたり、徳を積んだり、経を読んだりすることでできることは、たいしたことではない。人間が自力でできることは、それほど大きな規模のものではない。浄土の宿主である阿弥陀如来が持っている規模のほうがはるかに大きい。この規模に比べれば、人間が行いうる善とか、悪とか、修行とか、自分の力などは、小さな不完全な規模でしかない。だから、阿弥陀仏の誓願にひたすらすがる他力の信のほかに頼むべきものはないということです。

阿弥陀の浄土でいう善とか慈悲とか、大きさを信じきれば、現世の人間のあいだの小さな善、小さな悪とか、人間が自力で行える様々な徳行とか、修行といったことはちっぽけで相対的だということです。親鸞の三番目の信は、人間が自力でできることはたいした意味をもたないから、絶対他力の信に依るべきだということです。

◆「親鸞はこのように、実現すべきことを、『深く信ずること』『念仏すること』と、『みずからは計らわないという心の状態』つまり、『まかせるという心の状態』、ただこれだけだと、繰り返し言っています。しかし、このことは、弟子や同信の人たちに、一番理解されにくいことでした。

心の底から信ずることも難しいし、信ずると必ず浄土へ連れていってくれると信ずることも、また難しい。それから、そういう状態は、自分が善いことをしようとか、修行して何かしようと、自分の方から計らって自力をまじえて考えてはいけない。自分の方で修行しようとか、善行を積もうとか、少しでも計らった状態で信じずる心を持っていたらダメだと、親鸞は、はっきり言っています。そうすると、第十八願はたいへん難しいことになります。

◆親鸞が生きていた中世の当時、浄土へ往くことがどうしてそんなに切実であったのか。当時、普通の人々は、生きていくことが苦であったろうと思われます。疫病が流行ったり飢饉になればパタバタ死んでいってしまう。武士たちは盛んに戦争をしており、とばっちりを受けて、田畑を踏み荒らされたり、殺されたりすることが日常茶飯事のようにある。都に近ければ近いほど、生きていくということが苦だったことは確実だと思います。

生きているのは苦だ。では死んだあとも苦が続くのか。せめて死んだあとは苦じゃないところへ往けないだろうかという考え方が、普通の人々から盛んに生まれてきたのだと思われます。

◆浄土なんてあるのか、ほんとうにあるなどというのはつまらない考え方だ。浄土はあるとも言えるし、浄土はあるとも言えるし、ないとも言えるぐらいなことを言うほうがよほどいいので、まだそっちのほうが正しい、というのが親鸞の考え方です。

これは現代に通じる考え方です。何百年も前に、今に通用する考え方をちゃんと言っているわけです。これはものすごいことです。

◆信仰のある人なら、親鸞は、死んだら「仮仏土」というところへ往けるが、それは浄土ではない、浄土などというのはないとまでは言わないが、浄土が実体としてあると考えるのは嘘だよと、言っていることになります。親鸞は、浄土があるかなとてもいかと聞かれれば、あるとも言えるし、ないとも言えるということになってしまうので、そんなことは考えない方がいいんだよと言っているんです。

◆親鸞という人は、とても醒めている人です。だから、浄土があるとか、天国はあるみたいなことは、ばかばかしくて言えないのです。そんなことは嘘だから、とても言えない。他の宗教家でも、嘘だということはよく知っています。でも、そうは言えないわけです。

親鸞は、浄土が実態としてあるとは一切言っていません。そういう意味では、仏教をほとんどぶち壊したと言っていいくらい醒めている人です。この人は、宗教家というより、思想家と言ったほうがいいのではないか。まだその不況の仕方は、思想運動に似ています。

親鸞の特徴は信と不信のいずれにも通ずることしか言わないところです。信仰者としての自信は深奥にあって、他者にみえなくてもいい絶対的な他力にあります。信仰を持っていない人でも、親鸞が書いたものを読んで納得することができるのはそのためだと思います。

◆「親鸞は、悪いことをしても、ちゃんと救済されるというのが浄土教の理念である、と言っています。だから、悪いことをしたからといって、それはダメで、善いことをしたからそれはよいなんて少しも言っていません。どっちでも同じだ、悪いことをしても、善いことをしても、人間のやる「善悪」なんかたいしたものじゃない。だから、悪いことをしても浄土へ往ける。もちろん善いことをしても浄土へ往ける。そう説きました。

しかし、それは悪いことをすすんでやることを意味しません。あるいは、善いことをすすんでやることがよい、ということも言っていません。そんなことは、いずれにしろたいしたものじゃない。他者にたいする救済というか、奉仕というものは、もっと広漠とした規模の大きいものだ。だから、人間のやる「善悪」でもって、善いことをしたら浄土へ往けるとか、悪いことをしたら浄土へ往けないとか、そんなことをいうのはウソだと言っているのです。だからといって、すすんで悪いことをしたらいいのかということ、そんなことはなおさらウソだと言っています。おのずからつい悪をしてしまったというのだったら、いたしかたない。それは誰にでもありうることだから、断罪されることはない。浄土門は、悪だからといって、そういう人を絶対断罪したりはしない。それが浄土門の立場なんだ。そう親鸞は言っています。

◆「自然法爾」は、親鸞の最後の思想です。つまり「おのずから」ということの理解です。心の底から阿弥陀仏を信仰して名号を称えれば浄土へ往けるという浄土教の理念とはどういうことか、親鸞は心の持ち方を含めて解釈しています。それは、自分のほうから計らわない、意図を持たないことが「おのずから」ということだと、親鸞は言います。

それまでの僧侶は、僧院の中で座禅を組んだり修行したりして、体を痛めつけて幻覚みたいなものをつくりだす技術を手に入れることが仏教の修行だ、浄土へ往く道だと考えていました。しかし、そんなふうにして修行に励んだり、善行を積んだりして得られたものはウソっぱちだ、と親鸞は考えました。

そうではなく、無心というか無心よりももっと茫漠とした光に包まれた状態、つまり、おのずからそうなった状態で名号を称えればいい。そのことを「自然」とか「法爾」の概念に充てました。おのずからそういう状態になったときに、なにか光みたいなものに茫漠とつ包まれた感じで信が生み出される。その光と、そのときの阿弥陀仏という名号が「自然」だ、と説いているのです。

善行しようとか、修行してひとつの境地を獲得し、それで清浄の世界へ往こうなんて考えたら絶対にだめなんだ、何も計らわないで自然にしていて、それで光に包まれたような状態になって名号を称えるということ、それが浄土へ往くことである。そのときの浄土とは、ちょうど生と死の「中間」でもって、生のほうも照らし出せるし、死のほうも照らし出せる場所なんだと、親鸞は考えたのです。

◆アフリカで飢えている人に毛布を寄付しましょうと、町内会や区役所で決める。それは善いことにはちがいないが、なんとなくうさんく臭いと思うところもあるでしょう。そんなことをどうしてする必要があるのかなあと思う人もいるでしょう。

それに対して親鸞が中世に考えたことは、いまでもちゃんと答えにできると思います。つまり、自然に毛布を出したいと思ったら出せばいいし、それが疑問だと思ったら出さないでいいんだということです。そのときもし「おまえはどうして出さないんだ」という人がいれば、そいつはダメなやつなんだ。どうしてダメかというと、人間の善意をとても大きなもののように錯覚しているからだ。つまり、人間の善悪を第一義のように錯覚しているからだ。そんなふうに考えると、その問題は解けるわけです。

◆通俗的に解釈すると、だいたい、善い子とをしているときとか、言っているときは、図に乗ることが多いのではないでしょうか。逆に言うと、他者が悪いことをしている場合には、けしからんじゃないかと非難することになってしまいます。

しかし、人間は、善いことをしていると自分が思っている場合には、悪いことをしていると思うぐらいがちょうどいというふうになっています。逆に、ちょっと悪いことをしているんじゃないかと思っているときは、だいたい善いことをしていると思ったほうがいいのではないでしょうか。

これは、人間の中の、善悪というもの、あるいは倫理、善行、悪行というものについての、とても大きな、微妙な問題があります。

どうも、善悪、倫理というものは、心の中に内在しているときだけ区別できるもののように思われます。それが外部に、行為や言葉として現れる場合は、誤差を生み出さずにはおかないようなのです。

外部に行為や言葉として現れることは、善悪、倫理を共同の場にさらすことです。心の中にあるときは、善悪、倫理は個人の内にとどまっています。これを共同の場にさらすときには、必然的に誤差を生み出します。

しかし、つきつめていくと、これは誤差ではなく、本質的には善と悪の転倒を生み出すのではないでしょうかの。親鸞はそのことを洞察していたものと思われます。

ではなぜ、現実には、善悪、倫理は転倒までいかずに、誤差として現れることが多いのでしょうか。それは、善悪、倫理が行為や言葉として現れる場合、大なり小なり、無意識の行為や言葉として現れる部分を含んでおり、この無意識、無意図の部分が、善悪の転倒までいかせずに誤差にとどめておくのだと考えられます。親鸞は、この無意識、無意図を他力第十八願の真髄とみなしたと言えます。

行為や言葉として現された善悪、倫理は、現されたということだけで、共同の場にさらすことですから、たとえ無意識であったとしても、他者の無意識を共同の場に引き込んでしまいます。善行や悪行が少しでも無意識を離脱して意図的であったとき、他者を引き込んだり、息苦しくさせたりするのは、そのためだと思います。

親鸞が洞察したのは、宗教が、善悪、倫理と結びつくとき、善と結びつくのは本来的ではなく、また、必ず誤差を含むことなしには不可能であることをよく知っていました。本来的にいえば、無意識の悪と一番近いはずだというように考えたのです。だから、「造悪論」が一部に出てきたとき、親鸞は、それは「意図的な悪」だから、意識的、意図的な善と同じようにダメだと判断したのです。

人間の善悪、倫理は、大変気をつけなければならないことです。信仰を除けば、一番気をつけなければならないことだと思います。また、それは思想の一番大きな眼目だと思います。何を善として何を悪とするかをよく考えてみると、その思想はどの程度の思想か、どの程度のできあいの思想かを判断できるほどです。親鸞の善悪の判断の基準は、たぶん、人間が考えられる最後のところまで達していると思うのです。

親鸞が出てきた時代は息苦しい時代でした。(略)だから、善悪の問題も息苦しい問題として身に迫ってきて、どうしてもそれを解決しなくてはならない、それが宗教の中にも出てくるわけです。(略)

現代は、戦乱ではありませんが、平和な息苦しさの中で、善悪の問題がどんどん身近に迫って来るということがあります。それをどう考えたらいいのかが、大きな眼目になってきます。親鸞が当面したのは、全く同じ問題だったと思います。

◆親鸞は「善」よりも「悪」のほうが弥陀の本願に近づきやすいと説くと同時に、「知」よりも「愚」のほうが、弥陀の本願に近づきやすいのだと説きました。親鸞にとって、自分愚が限りなく「愚」に近づくことが願いでした。愚者にとって、「愚」はそれ自体ですが、知者にとって「愚」は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題です。

◆知識というものは殺すものなのだ、と親鸞は言っているのだと思います。知識など自慢するやつは一番バカなんだ。知識を極めるのはいいことだが、極めたら、あとはそれを殺すという道を通らない限り、こんなものを自慢しているやつはダメなんだ。知識を殺せなければ嘘なのだということです。

◆現代にも、知識を自慢する者が、いわゆる知識人と言われるひとたちのなかにいますが、(そんな時のわたし自身も含めて)一番ダメなわけです。








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