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宮本常一「母の思い出」「母の記」を転載します。(長いので文中に小見出しを入れました)
「母の思い出」

家が貧しくて、母は朝早くから夜遅くまで働かねばならなかった。何歳の時であったか、誰の背におわれていたのか、それはわからないが、母が恋しくて泣きにないて、見あげた空の松の上に月が光っていたのが、私が物心ついての最初の記憶であった。いそがしくはしていたが母は私を可愛がって下さった。だから母について田や畑へいくのが好きであった。

薪をとるため奥山へゆくときなど、母はよく唱歌をうたってくれた。母は小学校へゆかなかった。小学校へゆく年のころは子守奉公にいっていた。子供の守りをしながら教室のガラス戸越しに字をおぼえ唱歌をおぼえたのであった。母に教えてもらった唱歌のうちのいくつかはいまもおぼえている。その歌をうたうと、キラキラとまばゆいばかりに日の照る山道をのぼっていった日のことが絵のように思い出されて来る。母とあるく道はすべて美しかった。

あるとき母といっしょに山畑の桑を摘みにゆく途中夕立にあった。大きな木が近くにいくらもあったが、大きい木には雷がよくおちるので、母は木の立っていない坂道の中程に、背負っていた大きな桑籠を横にしておき、上へ1メートル四方の筵をかけ、その籠のなかへはいって雨をさけた。足を折りまげて2人はいったが、母の足首は籠の外に出ていた。私は母に抱かれジッとしていた。雷が真上のあたりで鳴っていた。

しばらくすると雨は小降りになり、やがて西の空がはれて来た。籠のなかから出てみると、あたりは生きかえったように青々とした色が冴えていた。母は私を見て「おそろしかったの」といった。そのときの母をほんとに美しいと思った。

2人はそれから桑畑へいった。桑の葉がぬれているので摘むことができない。そこで枝をゆさぶって露をおとさねばならなかった。親子は桑畑の中を桑の露をおとしてあるいた。すると夕立にぬれるよりもひどくぬれたが、頭の上に青い空があるとたいして気にならなかった。露をはらってしばらく休んでいると桑の葉はかわいて来たので、母は桑を摘みはじめた。夕立をさけるためにかなりの時間がすぎている。家には腹のすいた蚕が待っているはずである。母は一心に桑の葉をとっていたが、やがて思い出したように唱歌をうたいはじめた。私も母の手伝いをした。それがそれほどのたしになったであろうか。夕方までには大きな籠が桑で一ぱいになった。母はその桑籠を背負った。荷が重いから帰りは歌をうたわなかった。私は後から一生けんめいについてゆく。休み場のあるところで休んではゆく。私も早く大きくなって母を助けたいと思った。

不平も愚痴もほとんどいわぬ人であった。そして冬になると毎日のように機を織り、それで着物をぬうて着せて下さった。家の中から機を織るオサの音がきこえると、私は安心して外で仲間たちと遊んだ。




「母の記」

【少女時代の子守奉公】

母 宮本まちは明治13(1880)年7月23日、山口県大島郡西方村(現東和町)長崎升田仁太郎長女として生まれました。仁太郎は大工をしていて、方々を渡りあるきましたが、家族のものは郷里にいました。しかし、その少女時代に一時山口へ家族が移り住んだことがあり、母はそこである士族の家の子守奉公をしたことがありました。そのときその家で仕付けられたことが、それからさきの生活に大きい影響を与えたようで、身をつつしむことふかいものがありました。

【父の求婚、貧しい結婚生活】

明治33年(1900)年21歳のとき、郷里の隣家の宮本善十郎のところにとつぎました。それが私の家ですが、当時私の家は赤貧洗うがような有様でした。そういう家へとつがなくてもよかったのでしょうが、父が母を熱愛して、単身隣家へいって、どうしても嫁にくれといって強迫同様にして両親をときふせたということです。

そういう夫婦ならば、貧乏でも大へん仲がよかっただろうと思われますが、事実はそうでなくて、父が短気で、よく母を叱り、時には暴力を用い、それを隣家できいていなければならなかったその両親の心をずいぶんいたましめたのでした。そしてそのため母はよく家出しましたが、親もとへかえればすぐつれにくるので、山口のかつて奉公していたさきへいくこともたびたびだったようです。

【働き者でやさしい人】

といっても父は母をただいじめていたのではなかったようで、結局は貧乏のなせるわざで、大きな借銭をどうしたらなくすことができるか、また農業経営の実績をどうしたらあげられるかということについて苦心していました。この父につきしたがって母はほんとうに苦労しました。子供心にも母の苦労が身にしみてわかりましたが、母はそれによくたえて働きました。

姉や私はこの母につれられて、小さい時から田畑の仕事や薪とりなどにいきました。そうした道々、母はよく唱歌をうたってくれました。山口で子守奉公していたころおぼえたものでした。母は子供に対してはほんとにやさしい心のゆきとどいた人であり、私たちの着物はすべて母の手織りであり、また手縫いでした。いそがしいなかでほんとによく努めたひとでした。

家では明治の終わりごろから蚕をかい、それが大正の好景気を迎えて繭の値上がりから、収入もふえ、明治初年以来の借銭から足をぬくことができるようになり、やっと家計は安定して来ました。すると父は自分のなめた苦労を人にはなめさせたくないとて、貧しいものには金を貸し、また困った人の相談相手になったり、世話をしたり、家の仕事は母にまかせて、昼も夜も出あるくことが多く、家計が安定しても母のいそがしさはかわりませんでした。

【父の死、女手ひとつで家を守る】

それでも大正の終わりごろから夫婦そろって旅行に出ることもあるようになり、父もずっと母にやさしく、このままいけばほんとにめぐまれた老年をすごすことができるだろうと思っていましたところを、私の長い病床生活の後、今度は父が病気になって61歳でなくなりました。母はそのとき54歳でしたが、それからの母はもう一度はげしく働かねばなりませんでした。私は病後大阪の小学校につとめており、弟は遠くフィリピンのダヴァオに働き、姉は郷里の近くの小学校につとめているという有様で、母はひとり家をまもっていたわけです。母一人をおくことが気になるので、様子が知りたいと思っていましたら、母は自分の生活を私に知らせるために日記をかきはじめました。母は小学校へはいきませんでしたが、奉公にいっていたころ、小学校で、窓越しに先生の授業を見て仮名だけはおぼえていたのでした。

この日記は終戦の年までつづきましたが、おしいことに私は大阪で戦災にあって焼いてしまいました。戦後しばらくは電灯もろくにつかず、夜のあかしは肥松やろうそくによったことがあり、それでは夜日記をかくこともできず、それに60歳を半ばすぎてのことで目もうすくなり、中止してしまいましたが、日々の天気、農作業、交際など要領よくかいたものでした。

【戦中、戦後、苦労を重ね みなの支えに】

母の生活は戦争がはげしくなるにつれて、きびしいものになりました。食うものとぼしくなったところへ、私は長男の千晴を疎開させ、さらに妻の母や長女も疎開させました。それは母には大きな負担になったようです。さらには敗戦後は私も家をやかれたために、妻と共に家に帰ってきました。

その敗戦の年の10月に、ヤルート島の司令官をしていた母の弟が戦争の責任を負うて現地で自殺しました。そのため愛知県に居た家族のものも郷里へかえってきました。母はこの家族のめんどうも見なければならなくなりました。つづいて私の弟の妻が急死したためその子供2人も私の家に引きとらねばならなくなりました。弟も戦災で家を失っていたからです。

これら多くの傷つけるものをかかえて、その中心となって世話をしなければならないことは老年の母にとってはこの上ない大きな負担であり苦労でありました。それをただみずからの健康にまかせて働きつづけてみんなの支えになったのです。しかしそうしたなかで母の弟の妻は病死しました。

【みなが育ち、戦争から帰り、少しずつ安定へ】

がいくつかの身辺の不幸にも屈しないで、耐えて来て、すこしずつ明るい方向へ向かいはじめたのでした。まず、母の弟の遺族・・・甥や姪たちは、それぞれ学校を出て就職したり、あるいは上級学校へすすんで郷里からはなれてゆき、私の弟も新しい妻を迎えて、2人の子供をひきとっていきました。そうしたことから母の生活がすこし安定して来はじめたのは昭和27(1952)年ごろからでした。

母は信心深い人で、旅にいる子や孫、甥姪たちの写真をもってはお宮へまいって、その健康と幸福を祈っていました。そればかりではなく、昭和18(1943)年ごろ、村の南の白木山に高射砲隊の陣地ができて、海軍の兵隊たちが駐屯し、その兵隊たちが休日にわれわれの家へ休息のためにやって来ると、母はその人びとをねんごろにもてなし、その人たちが戦地へ向かうと、いちいち写真をあずかってお宮へ持ってまいって武運長久を祈ったり、また家では陰膳をそなえていました。そして戦後その人たちが無事かえって来たという通知のあるまでそれを続けていました。幸いにして出征兵士のほとんどが無事にかえって来たのでした。

【故里で老いてゆく】

世の中もかなりおちついて来たので、私は時折東京へ出て一しょに住まないかと母の気をひいてみましたが、私の生活力の弱さも気になってか、出ようとはいいませんでした。いかなる苦難の日にも故里の土だけはその生活を支え力になってくれることを母は体感で知っていました。そこでやむなく私は妻を郷里においたのでしたが、母は私に「死水はかアちゃんにとってもらう」といつもいっていました。妻と母は性格的にはかなりちがっていましたが、2人の間に争いはなく、また母が妻のかげ口をいったことをついにいちどもきかないですぎました。妻の苦労も多かったと思いますが、母にとっては故里で多くの知己親戚とともに生きることが何よりの喜びであったようです。

ただ春になると大阪の姉や弟の家へいってしばらくの間休息してくるのをたのしみにしていました。それも末の孫の光のことが気になりはじめると、矢もたてもたまらなくなって家へかえって来るのでした。私もまた、一家そろってあそびに出かける計画をたてて、時折方々の社寺などへまいりましたが、5、6年前眼底出血があり、医師の診察をあおぐと高血圧だとのことで、それからは母も自重するようになり、またたえず医師にも診てもらうことにしました。

【最晩年の記~昭和37年3月12日 家に立ち寄り母に会う】

それでも働くことだけはやめませんでした。今年も弟が法事のためにかえって来るというので、「それについて大阪へいき、しばらく遊んで来たいとい。孫の光もつれていくのだ」とたのしみにして弟のかえるのをまっていました。そういうところへ昭和37年3月12日、私は東京から九州へいく途中を家へ寄ったのでした。その時母はいたって元気でした。「2月初めに医師に診てもらったら血圧もひくい、心臓もよくなっている」といわれたとて、明るい顔をしていました。13日私は隣町へ講演にいき、14日みかん倉庫をたてるというのでミカン畑へいきました。母も義母と一しょにいって手伝いをしました。私は夜隣町の漁業組合で話をたのまれていたのですこし早目にかえって出かけました。そして話をすまして家へかえったのは夜半でした。そのとき大きな鯛をもらいました。

【15日朝 九州へ立つ私を明るく見送る】

15日朝妻はその鯛を刺身にしたり、吸物にしたりしましたが、私は朝から生臭いものはどうもすきでないのでたべませんでしたが、母は大へんな喜びようで、たくさんたべ、私が九州へいくため出かけるのを、家のまえまで見送ってくれました。それこそ明るい元気な顔でした。

私が出かけてから、母は鯛の半分を親戚へ持っていきました。そのかえりに親戚のおばアさんたちと一しょになりました。おばアさんたちはお宮へまいるのだとのことだったので、母も一しょにまいりました。途中で妻にあいました。「水いらずでいいでしょう」と妻に満足気にいいました。母はそれからお宮へまいって、おばアさんたちと長い間世間話をしました、。そして家へかえってみると弟からハガキが来ていました。いよいよ弟が迎えにかえってくれるわけです。しばらく家を留守にするとなると、その間妻の負担が重くなります。それですこしでも仕事を片付けておかなくてはならぬと思ったのでしょう。義母と2人で昼食をすましてから山の上にある小さい麦畑の中を耕ちにいきました。

【義母と山の麦畑へ】

妻は用事があって昼は家にかえりませんでした。かえってみると2人の母は居ません。しかし、朝「今日は山へいってはいけません」と母にいってあったので山へいっているとは思いませんでした。

2人の母は田圃道を横切って、山道にかかるところの畑のあぜに腰をおろしてしばらく休みました。もう春草が青く茂りはじめており、南風がそよそよと吹いている昼さがりなのです。2人の心はその春の日のように明るかったようです。

それから丘の上の麦畑へいって2人は夕方近くまで麦の中を耕ちました。そこは見はらしのよい丘です。すぐ西の下には西方という小さい部落の屋根がならび、その北にこんもりとしたお宮の森があり、森の上には遠く嵩(だけ)というすがたのよい山が見えます。森の北は海、その海にそうて長崎の部落が東西につらなり、森のはずれに私の家も見えます。南風の吹く海は青く、島がいくつもうかんでいて、その向こうには中国山地の山々が、薄く見えます。平和そのものの風景です。

【一仕事終えて帰ろうとし、倒れる】

その丘の畑の中をすっかり耕ちおえて、母は義母に「やれやれ、やっとすみました。かえりましょうや」といって一歩あぜの方へ出ようとしたとき、つまづいて、そこへたおれました。そして麦をつかんでもう一度たとうとしましたが、足が十分にのびません。

義母は「おかアさん、そこでしばらく休んでいなさい、誰かに来てもらいますから」といって山を里の方へくだっていきました。母も「そうしましょう」と手まくらで横になりました。まだ明るくあたたかい日が照っていました。

義母は丘を北へくだったところにある親戚へいって母のことをつげました。そこで親戚のものが丘へかけつけましたが、母はからだの丈夫な人で、肉づきもよく、女が負うて下りられるようなものではなく、男の人たちに来てもらって、戸板にのせて山を下ることにしました。

夕方妻が家へ帰ってみると、2人の母はいません。いつもは夕はんのしたくをしてくれているのです。妻はかまどの下に火をたきつけて夕はんの支度にかかっていると、親戚の子供が来て、「おばアちゃんが山で病気になっていまつれてくるから、医者をよんで来ておいてくれ」といいました。妻はおどろいて、あわてて医者をよびにはしりました。

【日が暮れ 医師が脳溢血と診断、昏睡状態に】

母が家へかえったときはすっかり暮れて夕空に月が美しかったのです。今にねかせますと、母は孫の光に「足がいたいからさすってくれ」といいました。光は祖母のひたいをなぜていました。そこへ医師が来ました。そして脳溢血だと診断しました。そのころから昏睡状態におちいりました。妻は方々へ母のたおれたことを知らせました。

【私は翌16日夕方仕事先を発ち、17日朝家に】

私は佐賀県西松浦郡西有田村の竜神というところの宿で、村の有志と遅くまで話して、その方々のかえったあと、電話で母の病気を知らされました。しかし16日の予定は動かせないので、16日の講演をすまし、午後5時過ぎの有田発の急行でかえることにしました。そして16日の夜は徳山でとまり、17日朝家へかえりました。姉や弟とも途中一しょになり、かえってみると親戚のものが看病してくれておりました。様子をきいてみると、発病当時は軽度のものでなので、もう一度恢復するだろうと思い、母がまえからかかっていた医師に来て診てもらうと、「今日明日のうちだ」と申します。まったくおどろき、それから方々へまた知らせることにしました。

【倒れてから5日目の未明、息を引き取る】

東京の母の弟や、広島山中の母の義姉もかけつけてくれましたが、母はつに意識を恢復することなく、3月19日午前4時に最期の息をひきとりました。そして83歳の苦難にみちた障害をとじました。

外へ出てみると隣の家の屋根の上の暁近い空に月が冴えていました。

【母の一生にふさわしい最期】

ふるさとに生き、喜びの声も、かなしみの涙もしみこませて来た土に母はかえっていきました。苦しい生涯ではあったが、子供たちもそれぞれ一応生活は安定し、孫や甥姪もみんな前向きになって自分たちの目的に向かってあるいています。そして自分も力一ぱい働き、仕事の区切りをつけて、しかも念願であった息子の嫁に看病してもらって息をひきとったのです。

20日のお葬式の日は小雨がふっていましたが、村中の人が、おくってくれました。

もっともっと長生きしていただきたいと思いましたが、ふりかえって見れば、生涯を働きつづけて、苦をたいして苦にもせず、不平もいわず、人をうらまず、またうらまれることもなく、ひたすらに自らのもつ愛情を周囲の人々にそそいで、世の中よかれとあるいてきた母の最期としてはふさわしいものであったかとは思います。

以上母の生涯のあらましを述べまして皆様方の御懇情に対する御礼のしるしにいたします。
                          (昭和37年3月27日)

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