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雑誌「たたみかた」にもたしかインタビューされていた元毎日記者であり、今はフリーの石戸氏の「リスクと生きる、死者と生きる」読みました。
2日で読めてしまいました。何人かへの丁寧な聞き取りと、チェルノブイリや福島第一原子力発電所への見学などが収められています。途中、泣けてくる個所もありました。

読んでみて、タイトルの意味がわかりました。1章は、放射線不安に直面する福島県民・避難した方の話で、「安全か、避難か」という二項対立ではなく、誰でもリスクを意識してグラデーションがあるというような内容です。それが「リスクと生きる」ということ。また、「死者と生きる」は、2章にあるように、津波で死んだ肉親を、死んだと思わず、ふとした瞬間にそばにいるような気持ちを遺族は持っている、つまり「遺族の死を無理に乗り越えようとはしないし、そう求めるのはよくない」というメッセージを感じました。
「リスクと死」との関係性が書いてあるのかと思ったのですが、読んで、「リスク」の話と「死」の話を並列で書いて要るのだと知りました。原発事故と津波との被害を同時に表す本て、あまり私自身触れてこなかったような気がするので、新鮮でした。

石戸氏は、さきの「たたみかた」にも寄稿している小松理虔氏や、「ゲンロン」の東浩紀氏とも似ていて、「科学だけではダメだ」という立ち位置のように私には見えます(そういう意味では安東量子氏も同じかもしれません。石戸氏はこの本でいわき市末続の方のことも書いているので、安東氏とも交流があるのかもしれません)。

「科学だけでは・・・」ということについて、疑問視しているこれらの方々が、もう少し科学の方に歩み寄ってはどうかなというのが、私の希望です。たぶん、科学の方々は善意の方だと思うのです。「事実を積み上げるだけ。発信はそれを得意とする方にお任せしたい」と、震災後私は、ある科学の方から直接聞いたこともあります。

この本では早野龍五氏もインタビューしています。しかし、「科学だけでは・・・」という点について石戸氏が突っ込んでないのが残念。早野先生自身の言葉「『科学的に正しいから』でみんなが納得するとは限らない」と、せっかく載っているのに、です。ぜひ石戸氏には、この先、科学の言葉と生活の言葉の架け橋になってほしいです。目的は同じなのですから・・・。




あとは自分のための抜き書きです

「私も家族と一緒にいたい」原発事故で壊れた家族 ひとり暮らす父親の思いについて。
SNSでは「これなら別れた方がいい」「放射脳になりやすい人」といった声が意外なほどに多かった。当事者の思いとはかけ離れた声ばかりが響き渡り、本人はますます孤立を深めていく

・津波で息子を亡くした母親の話
「ものがあるって大事なんですよ。思い出せるから。私、公太の声を忘れてしまったんです。後ろから『お母さん』て言われたらわかると思うけど、いまどんな声って聞かれてもわからない。取材で公太君の夢はなんですか?って聞かれることもあるけど、わからないんです。中学1年だったから、親との会話も少なくなっていたし・・・。壊すこと、捨てることは一瞬でできるでしょ。ものを見て、震災を思い出すから辛いっていう気持ちもわかりますよ。でも、なくなったから辛くなくなるのか、と言えばそうじゃない。だからこそ、『残す勇気』も必要だと考えている。『あっても辛い、なくても辛い。だったら・・・ね。残すのも勇気が必要ですから」

・「チェルノブイリとは違う」と言うことについて、石戸氏自身の言外に込めた批判
「(チェルノブイリ博物館の観光ガイドの言葉)原子力の悲劇という点で日本は第一の現場ではないか。テクノロジーを手に入れても忘れてはいけない。チェルノブイリ事故後の問題は解決されていないから福島でも事故が起きた。原子力には問題があるということを忘れないようにしている」
「(副館長)継続的に福島に関するものを展示したい。展示にはテクストをつけていません。解説はガイドがします。どうか自分で感じ取ってほしい。日本から来た人たちがどう感じるかが大事だと思っている。きたらぜひ感想をきかせてほしい」
日本では、時折、チェルノブイリと福島を比較されることはおかしい、という声を聞くが、彼ら(チェルノブイリの博物館副館長ら)は日本で起きた原発事故をまったくの他人事とは思っていないようだ。

→私としては、同じレベルの被害ではないということだけは言いたいのです。同じ「レベル7」ということで、被害の程度が同じと誤解されることへの危機感だけなのです。チェルノブイリの原発事故そのものや、人々の苦しみ、観光地化などを、私が他人事と思っているのではないってことなんです。読書メーターでも、ツイッターでお見かけする玻璃さんが、石戸氏が、日本における「チェルノブイリと福島を比較されるのはおかしい」という声を疑問視していることについて、論点がずれていると指摘しています。

・東浩紀氏の観光地化の意見
「福島第一原発の事故は、日本のみならず人類全体が記憶すべき世界的事件だ、というのが僕の基本的な認識です。それが意味するのは、事故は福島という一地方のものではないということです。提言や施策は、それがいまこの数年の復興に役立つのか、被災者を元気にするのかという基準だけではなく、県外や国外や、さらに後世の人々まで考慮に入れた多層的な基準で図られなければなりません。
僕はその考えのもと、事故跡地を原爆ドームのように保存すべきだと、被災地をチェルノブイリのように観光地客に開放するべきだと提言してきました。僕の提案は多くの批判を受けました。観光地化、という表現が挑発的すぎたのかもしれません。けれども僕は、世界的な事故が起き、その痕跡が数十年は消えない以上、もはや事故の世界性を逆手に取るしかないと考えたのです。
福島という土地が、広島や長崎のような一種の「聖地」になり、人類の未来について考える象徴的な場所になる、それこそが本当の復興であり、そのためにはもっと多様な書き手による多様な議論が必要だと僕は思うのです。(東浩紀 毎日新聞20150907夕刊)
これは、帰国後に私が毎日新聞で企画した、東浩紀さんと社会学者の開沼博さんとの往復書簡「脱『福島論』の中で、東さんが展開した議論だ。掲載したとき、かなりの数の批判が集まったことを覚えている。曰く、勝手に福島とチェルノブイリを比較するな。原爆の悲劇と同列にはできないだろう。訪ねられる側の気持ちも考えてほしい-----。
批判に接したとき、微妙な引っかかりがあった。何に引っかかるのかと考えてみたとき、私が東さんの文章に共感できたのは、自分がチェルノブイリで無知で偏見だらけの「観光客」になり、ウクライナの人々に事故の記憶を真摯に伝えられた経験をしたからだと気がついた。
もし、自分が逆の立場、つまり「観光客」を受け入れる側だったら、何ができるだろうか。遠くウクライナから、私のように細かい事情も知らなければ、偏見さえ持っている「観光客」が来たら、私は「歴史の当事者」として彼らに伝えることができるのだろうか。外から注がれる視線とは無関係に、被災地ではただただ復興が進んでいく。(略)福島第一原発はどうだろう。ウクライナのように「歴史」に遺されたり、「歴史の当事者」によって語り継がれたりしていくのだろうか。


・東電をやめて、原発の「語り部」になった吉川彰浩さんの言葉
「どちらが正しいか、ではなくエンジニアが外部の目や声に反応することが大切だと思っています。他の意見に触れる、外部の声を聞くことです。住民からすれば、意見が取り入れられること、結論に反映されることよりも、ちゃんと聞いてもらえたという納得が大事になるのです。
放射性トリチウムを含んだ処理済みの問題がその典型でしょう。コスト的、技術的に一番いいとされているのは、薄めて海へ放出することです。実際に、そういう方向で議論が進んでいる。海に流しても環境への影響はほとんどないとされています。それに、継続的に1F沖の海洋調査をしている民間団体もありますから、何か異常があれば彼らも声を上げることができます。
それでも、私を含めて地域に住む人で、これに諸手をあげて賛成する人は少ないと思います。これ以上、流すのはやめてくれと。やっぱり、どこかで嫌だという感情はある。これは感情の問題だから、リスクの問題ではない。実際にリスクは少ないんだから流しましょうというのは、違うと思うのです。感情と向き合いながら、ベターなやり方を探っていく方法はあるはずです。
トリチウムを含んだ処理水を、海に流すのに反対の住民もいるでしょうし、賛成の住民もいる。将来、避難先からの帰還を目指すなら、彼らの声を聞かないといけない。もっと、議論自体が住民に開かれないといけない。さっきも言いましたが、大切なのは合意形成の過程にあります。私は納得が必要だと思っています。「もう、これなら納得する」と思うまで、議論を積み上げる必要がある。住民とのコミュニケーションをとらないで、決定をしていいのか。これは、廃炉について国と東電に白紙委任をしていいのかという話につながります。住民不在の「信頼」でいいのか、という問題なのです。


→私は震災後、除染して一時保管するのではなくて、天地返しが一番いい、とブログに書いていました。もしくは、中学校単位ごとに集めて広場の下あたりに埋めるという方法です。でも、書いただけで運動をしたわけではないのです。やったとしたら、県かどこかに投書したぐらいです。
今、福島県では、除染の土は中間貯蔵施設に行く前であり、各家の庭の隅あたりに積み上げられているのです。少しでも集めると放射線量は高くなります。つまりいまだに、福島県では「ミニホットスポット」が点在しているのです。

実は、事故後、4月早々に実家の裏の畑を天地返ししています。「なんでお父さん、表土を剥いでどっかにとっておかなかったの?だめだべした、言っておいたのに」と責めましたが、宮城県の農家を出て、理科の教師だった父は「これが一番いいんだ。線量という点からも、手間という点からも」と、迷いはありませんでした。その後、科学に詳しい方もそうブログに書いていたので、やり取りをし、なるほどそれが一番いいんだ、父は先取りしていたのかと思いました。

しかし、それを他人に勧められるか思うと話は別でした。当時で交流していた福島県のブロガーに「汚染土は天地返しで埋めればいいんだよ、うちの実家もそうした」と伝えると「でもなんとなく、汚染土が埋まっていると思うと、気持ち悪い。嫌だな」と返事が返ってきました。これが、トリチウム問題と同じ話だと思いました。

もし私が当時、志があって、発信力もあって、地道に交渉する力があったら、・・・福島市の自宅から出る汚染土のミニホットスポットはなかったかもしれないのに、と、夢のようなことを考えるのです。

・本章最後の部分
起きた出来事を記憶するために、何かを遺す。いくつかの事例から学べることは二つある。一つは場の持つ力を軽視しないこと。もう一つは歴史的な出来事を物語る何かを遺すためには、同時代の人々に向けて語るだけでは不十分であるということだ。ある出来事から教訓を得るのは、同時代の人だけではない。そこには「未来」に向けて語る、という視点が不可欠になる。
振り返れば、この本に出てくる人たちの言葉、しばしば出てきたのは、未来に向けての語りだった。それは、自分の子供の未来であったり、偶然知り合うことになった福島の高校生のための言葉であったり、あるいは「100年後にこの震災ってどう伝えられているかなって考えます」といった言葉で、「未来」へのまなざしが表現されていた。
ここで、この章の冒頭の問いに戻る。私の問題は同時代の経験を、どんな立場で語ればいいのか? だった。出会った人たちの言葉から、この問いに対する決着はついたように思える。
私はいま、それを「歴史の当事者」という言葉で考えている。歴史の当事者は起こった出来事と自分自身の接点を見つけ、何かを考えている人である。どんな軽薄なきっかけであれ、単純な興味であれ、偶然であれ、何かを伝える場所やものがあれば、人はそこから考えることができる。
未来に向けて何かをしたいと思うとき、狭い意味での「当事者」か否かとい線引きは無効になる。誰もが自分の歴史を語り、未来を語ることはできるのだから。


→これを読んで、私は今まで「福島県民じゃないのだから、言ってはいけないこともあるし、本当の気持ちなどわからないのだから、知ったふうなことは書いてはならない」と思っていました。というのはやはり、「あのつらさ苦しさを体感していない人には言われたくない」という空気を、福島県在住の方から感じたからです。言葉で伝えられたこともありました。
でも石戸氏のこの意見には、救われました。「歴史の当事者として、思ったことは言っていいんだ」ということです。







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