まもなく1年となります。前の日曜、山下達郎が東京FMで
「来年は震災一周年で追悼特集を」と言っていたが
「1周年」とはなんだ、お祝い事でも記念でもないんだぞと思いながら、しかし、ちょうど2時46分に当たる時間に、彼はラジオで「私なりの震災追悼の意を表す番組にしたい」と話しており、気持ちが伝わってきていたので、めをつぶることに。
(しんだときに一周忌っていうけど一周年とは言わんだろうということ)

私はブログの中におり、福島にいないので、地に足がつかない発信でした。膨大な量を書いたようにも思いますが、「だれかのための発信」と、「自分のための発散」そして「備忘録」でありました。その境界があまりないと自分では思っていましたが、福島にいる方の気持ちを傷つけることもあり、悩みつつも、それでも次から次から入ってくる新しい日々の情報に「あれも書きたいこれも書きたい」気持ちをとめられずに、さらさら編年体でそのまま書き続けてきました。果たしてこれでよかったのかという反省は、持っています。

また、大量に書き続けましたが、「ブログがすべてではない」「外での活動を書きとめる手段だ」「大事なことは現場(福島)にある」「文字情報はその人のほんの少しの情報しか伝えない」という気持ちは常に持っており、同時に、福島にいないことにもどかしさを感じる場面も多くありました。

そう思いつつも、「私がこの震災のときに、愛する福島の外にいたのは何か意味があることだ」という気持ちを最初から思い続けたことが、私のよすがになっていました。
その理由の1つが、自分は福島の人のように被害を受けていないのだから、動けるだけ動こうと思ったこと。それは福島の知己に救援物資を送ることから始まって、不安でいる福島の人に、科学的にきちんと調べて知らせること、折れそうな辛い気持ちに、なんとか言葉をかけること。それと、自分には余裕があるんだから、ブログの中で書いたことは、どんどん外に実名で葉書、手紙、メールにて投書すること。必要な時は電話もすること。知事、自治体首長、マスコミ、議員、首相、大臣。もうダメ元です。
そして2つ目、もう少したって、ある方に「あなたにしかできないことは、あなたがやるしかありませんものね」と言われて気づいたのが、私が、福島の外にいるからこそできることをやるということです。それは、福島の人が行うことや言いだすことの難しい、寄付や賠償金に関する問題について考えること、それから、静岡における風評打開です。

今後もそんな感じは、継続していきます。

1年振り返っても思い出すのは、ブログ内考察、またブログ内交流を超えた、福島のみなさんや、著名な専門家とのやりとりでした。

ブログ私いくつか持っているんですが、医大の先生に問い合わせたら一面識もない一般人の私に戻ってきたメールを転載したのが、飯坂生まれのブログで書いた最初です。
震災後1週間、福島が、心配で心配でたまらなかった私の腹は、これで決まりましtた。私のすることは「福島県民の心のサポート」。

【ちょっとここ追加】それから、前にも書いた全国紙の科学部にいる大学の先輩(理か工出身)にメールを出したら帰ってきたのも、大きなお守りになりました。3月19日着のメール。
「政府や電力は今ひとつですが、福島県や地元はがんばっていると思います。今の時期、移動にはリスクが伴います。ご家族に関しては、まずは県・地元の指示にしたがっておけば、それほど深刻なことはありません。
ただ、30キロ圏外でも浪江あたりは何らかの対応との見方が出てきました。福島市内ならまだとりあえずは大丈夫だと思いますが、低線量被曝は実際の発病との因果関係があいまいで、もうこれは気分の問題だと思います。ご家族が、「安全と言われても安心できない」というなら、東京以西(でも、西日本の自然放射線量は東日本より高いよ!)、静岡?に一時避難する手もあるでしょう。
今日までの分として考えれば、欧米への海外旅行(宇宙線被曝がある)を今後1、2年控えるだけで、もとは取れます。バナナも自然状態でも放射能が若干あるので、食品でバランスを取りたいなら、生バナナを1年控えてみたらどうですか。冗談みたいな話なので、そのくらい微妙と言うことです。もちろん実行しても構いません。
確かに、政府の発表は、理由がどうであれ、問題ですね。文科省の都道府県環境放射能は福島をはずしてしまって(=新聞紙上で全国の線量を載せているのに、「福島:測定なし」と表記)ひどいです。でも、メディアの規制などありません。
福島県については、県ががんばっているのでHPをこまめにチェックするのも手でしょうね。」

この返信を読み、私は情報のない中、ぎりぎりで頑張っている県や地元を攻撃するのをやめようと決めたのです。

5月には菅谷昭松本市長に葉書を送ったら秘書の方から封書が来て、「市長が電話で話したいそうです、電話番号を教えてください」と書いてあったので、メールにて送り、そうしますと秘書からまたではいついつの何時頃お電話しますと返信、そして電話をいただきました。そのときは、福島について内部被曝に注意していくことというおお話で、安堵いたしました。姉にも早速電話しました。福島の講演でも、そういう内容でした。

しかしながら、その後、このブログでご紹介し、皆さんに検証していただいたように、変節し「福島や郡山から妊婦や子供は早くに避難させなければならぬ」という主張になったため私は不信感が募っています。

また「なんで5月の時点と言い分が変わったんですか。具体的に何人、どこから、どの線量以上ならば避難させないとお考えですか」と葉書を出したら、夕方急に電話がかかってきまして、なーんも言い返せませんでした(泣
私はこれ以上は無理と思ったので、科学部記者の先輩に、5月の講演と10月の講演をまとめた、市長から送られてきた広報を送ってあります。

それから、20mSv問題などで世論が揺れ出し、6月の野口邦和氏の講演@静岡大学。静岡県民向けですので、たんたんと事実を述べているという感触でした。どのぐらいセシウムが降ったかという概算、暫定規制値は「我慢値」と考えればよい、福島ではいまだに外に洗濯物を干さないでマスクもしているのは、これは認識違いだ、などと述べられました。東京から沖縄に逃げた医師の妻の話を一刀両断し、「医師のような科学的知識を持つ者すらこの認識。つくづくこれまでの教育がなっていなかったと痛感します」とも話しておられたのも忘れられません。緊張しましたが質問もしてきました。「55.5万ベクレル以上強制移住」という流布された言い回しを否定してくださり、安堵して、雨の中高速を帰ってきたのを思い出します。

7月に、双子の冊子を作った関係で、双子さんである三橋紀夫先生から「放射線を考える」という冊子を送っていただき、当時の疑問について、メールしたら返信きました。福島市内からの避難は必要なしと断言してくださりました。そして、11月の講演会でお会いすることがかないました。「私の言い分は、怖い怖いと言っている方には、受け入れられないのでしょう。講演会を開くと、必ず反対の方が陣取り、質問を浴びせ、本当に聞きたい方が聞けない状況でもあるのです」ということでした。また、放射線腫瘍学を専門にがん治療をしておられる先生の嘆きは、医療被曝を恐れる人が格段に増えて、治療に問題をきたしているということ。放射線に関する誤った考えがこんなところにも弊害をもたらしているのだという現場の苦悩を感じました。

そして8月、帰省できました。やっぱり、実際に福島の土を踏むことでわかることがたくさんありました。小5の次男と福島市役所に出かけました。お話を聞きました。たしかに子供はその辺歩いていなかった。けれど、子供たちは春休みの帰省が出来なかった分余計にうれしそうでした。いとこも元気でした。安心しました。

yさんと相馬に行きました。津波の跡を見てきました。そこから、仙台に上がりました。いとこの家があり子供のころからよく行っていた新浜、家が浸水程度で済んだことに奇跡というのを実感しました。若松、喜多方で懐かしい先輩方や友達にも会いました。県庁や市役所や図書館に三橋先生の冊子を寄贈しました。福島の友人にも会いました。震災がなかったら帰省はいつもだらだらと温泉に入っているだけなので、震災があったからこそ、会えたのだという思いをもちました。


それから帰省の記事をいったん最後に、飯坂生まれのブログから、こちらのブログに移ってきました。こちらでは、前のブログとは違って、コメント欄をあけてみました。本当は危険だという方のコメントで攻撃されたらどうしようかなという気持ちはあったのですが・・・こちらに来てからは、ほとんどありませんでした。逆に、いろいろな方に有用な情報や、福島の実態、気持ちをたくさん教えてくださり、ブログはこういう利点もあるのだなと思った次第です。

双子のサークルの静岡市での集会で、震災のことを伝えてほしいと代表の方に言われたので、出席できないので、当時始まっていた被災財受け入れ反対に対する文(icchouさんには大変いろいろなことを教えていただきました。あ 今も進行形です)と、三橋先生の文章、それと、パクさんひまわり先生としぼーさんらの「福島の生の声」をまとめて、配布してもらいました。パクさんには渡したのですが、お二人には9日にお渡ししますね。



秋から年末、そして年末には10年ぶりぐらいに冬の福島に帰り、またまたいろんなことを感じ、やっぱ冬はこの寒さだよなぁ温泉だよなぁなどと思いながら、短い年の瀬を楽しみました。パクさんとも初めて会って福島駅前のイルミネーションがともるまで話し続けてしまった。それほどの濃い邂逅でした。

そして、希望の年があけました。

だれもが「今年はいい年にしたい」と祈ったことでしょう。

静岡の人なんかは、「ああ、震災1年だ」と「点」の感覚で思うのでしょうが、私の感覚は点の積み重ねの「線」です。途切れていないので、震災1年というとらえ方が、静岡の感覚とは違うと思います。でも、点でもよいのではと思っています。ビートたけしが言ったように、「日本人が二万人死ぬよりも、大事な肉親が1人死んだ方が自分には大きいことなんだ」ということもまた真実だと思うので。でも、「点」で知ってほしいという思いは常に持っています。

震災1年過ぎたら、私が努力したいことは3つあります。

1)私は未熟者なので、どうしても、確執があったり、いつまでも危険だ危険だという人のことは、カーッとして嫌いになります。しかし、やっぱり、人をのろわば穴二つじゃないけれど、怒っても、相手を嫌っても、何も生まれないんじゃないかなと。「地獄におぢろ!」と呪うんじゃなくて、「幸せになれよコノヤロー!」だよ・・・と、ある方から教わりました。すぐ頭にくる私には大変難しいんですけれども。

2)本当は不安な人はいったん避難したほうがいいとは思いますが、まだまだ不安なまま残っている人もたくさんいると感じます。これをどうすくいとるか、これは去年挫折した案件です。理想は、双子の冊子をつくったときのように、同じ母親という目線で、わかりやすく放射線あまり怖がらないでいい、というようなガイドブックをつくることです。双子冊子にして思ったのは、ペーパーレスの世の中とはいっても、形にすることは大きいということです。次男の放射線の自由研究を何か使えないものか?ということも考えていますが、なかかなかに難しいですね。

3)もうひとつは、価値観の違う友だちとは、そのど真ん中の話をしないこと。これはある方から教えていただきました。「この程度の放射能なんかに」折角のご縁を壊させませんよう、その友人とは放射能以外の話題では歓談を増すようするなり、あるいは共有する不明・不安箇所や怒りのツボ等を探すなりして、交流を続けることそれ自体を優先するということ。



震災1年を前に、リスク・コミュニケーションの勉強会と、「ご縁玉」の映画上映と、福島にて大きな行事がいよいよ迫ってきました。でもbloomさんにお誘いを受けたときに「ではでは、私が記録係を!!」と言いだしたのですが、bloomさんががPCで概要を打ちこんでくださるということなので、私はその補充に当たるということで、だいぶ気が楽になりました。当日私も打てればいいですけど、無理な挑戦はしません。機械音痴の私は、買ったばかりのケータイが使えず、子供に、今度福島で会う方や再会する友人の電話番号を打ちこんでもらっているというぐらいなので。(PTAの役員になるので、買ったのでしぶしぶ購入・・・、来年度終わったら手放したいです)

新年は、3.11からあけるような感覚も少し持っています。
みなさまも、それぞれに
「復興元年」におもいをはせる前夜となりますよう。



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