メモです。朗報と、嫌なことと、いろいろ、あとは論点と、
書いておきます。
1)島田市にふるさと納税、増加
(読売2012.4.5遠州版)

「処理につかってほしい」「市の決断に共感した」「この街に生まれた誇り」など8件、34万が寄せられた。

2)札幌市長、受け入れ反対

札幌市の上田文雄市長は4日、「国から示されている(放射性物質の)基準や指針では安全の確証が得られる状況にない」として、拒否する回答文書を細野豪志環境相に郵送した。
同市の各清掃工場で処理される一般ごみの焼却灰からは、1キロ当たり13~18ベクレルの放射性物質が検出されるという。市幹部は「岩手、宮城のがれきは札幌以上の数値になるはずだ」と指摘している。

3)金沢市長脅迫はねのけ

山野市長は定例記者会見で「紳士的な意見には真摯(しんし)に謙虚に聞くが、脅迫文は送り主のヒステリックな感情でしかなく、相手にしない」と批判。

※受け入れとは別みたいですけどね。でも、 「震災がれきを受け入れたら殺す」などと書かれたはがき3通」って朝日は報じていないみたいです。→白河さんのブログ

4)当地説明会行けないかも。

市内3地区(焼却場、処分場近辺)で開く広域処理に関する市の説明会が、どうやらPTAの会合を重なりそうです。マズイ。昼なら行けるが。

地元関連で気になるのは、こんな会合がある。清水副学長、櫻井市長ともに良識ある方だと思うのですが、趣旨がそっち系かじゃないか、という、一抹の不安があります。確認してきたい気もするが、午前に行事があり難しいかもしれません。

5)斎藤環氏の毎日新聞エッセイ、後半部分のみ抜粋

このままがれき処理が完了しても、受け入れる自治体側の被害者意識や、受け入れてもらう被災地の側の負い目について、十分な手当てがなされるとは考えにくいからだ。

 ここで、「ケガレ」から「セキュリティー」に視点を変えてみよう。

 社会学者のジグムント・バウマンは「ゲーテッド・コミュニティー」を例として、過剰な「安全」の追求は何をもたらすかを述べている(「コラテラル・ダメージ」青土社)。彼の卓抜な比喩によれば、それは「子供たちが完全に安全な環境で水泳を覚えられるようにと、プールから水を抜くようなもの」なのだ。

安全とセキュリティーには「これで十分」という基準がない。それゆえに放射能のように、「これ以下は安全」というしきい値が未確定で、なおかつ眼(め)に見えない存在に対する場合ほど、安全性の追求は「強迫観念」に似たものになる。

 そうした強迫観念は、バウマンも指摘するように「恐怖心や不安、敵対心、攻撃性、道徳的な衝動の弱まりや抑制に伴う、不安定さの縮小ではなく、むしろその急速な増大」をもたらす。また長期化することで、相互信頼が掘り崩され、猜疑(さいぎ)心(しん)の種がまかれ、意思疎通が難しくなる。

 ここで述べられていることは、がれきを巡っての対立構図にそっくりそのまま当てはまる。ただし対立の解決は、住民に対する一方的な啓蒙(けいもう)と説得だけではまったく不十分だ。対立の根底には、原発事故以来の政府への強い不信感があることを忘れるべきではない。

前回私が取り上げた低線量被曝(ひばく)をめぐる対立は、全世界どこの地域でも起こりうる問題だった。しかし「がれき」を巡ってのドタバタは、あきらかに日本政府が自治体や住民とのリスクコミュニケーションに失敗したために引き起こされた事態ではないか。

 こうした対立を解消すべく、ジェーン・ジェイコブズは次のように提案する。「安全性に対する信頼は、小さな歩道での出会いや接触の積み重ねから醸成される。人々の何気ない接触の積み重ねとその痕跡が、市民同士の敬意と信頼の中から紡ぎ出される一体感である」(「アメリカ大都市の死と生」)と。

 私なりに翻案するなら、重要なのは「現前性」と「相互性」だ。がれき受け入れ問題においては、この点がまず考慮されるべきであろう。対立の禍根を未来に残さないためには、被災地と受け入れ側との直接かつ相互的なやりとりが十分になされるべきなのである。



※1→斎藤氏は、受け入れ拒否問題は、復興の遅延が問題視されるが、それよりも、受け入れ自治体の被害者意識と、受け入れてもらう側の負い目が問題だと言っています(ほんとうはそこを詳しく知りたかったのですがこの行のみのようですが・・・)この心の問題は大きいです。例えば島田市はのりこえられたからいいものの、「脅迫」に屈した武雄市の市長などは今どんな気持ちでいるでしょうか。そして、金沢市長も余計な被害を被っている。まさに両者とも被害者意識を高めているのではと危惧します。それが、被災自治体への厳しい目線になってこないとだれが言えましょうか。

だから、被災地の方々の中に「そんな思いまでさせて、受け入れなんてしてほしくない」「そんなら我慢する」という投げやりな風潮が生まれてこないとは限らない・・・。

どうしてこうなってしまったかというと、
※2→斎藤氏は政府のリスク・コミュニケーションに起因するとしていますが、またか・・・。また出たよリスクコミュニケーション。私はいつも思う。どうしてこの言葉を日本語で書き表せないのかと。日本にはそういう概念がなかったのかということ。たまに私も「リスコミ」と言ってしまうときがあるが、この手の、あまりなじんでいない長い「外来語」を短縮することほど、傲慢で(つまりリスクコミュニケーションという言葉を理解しているあなたと私というのが大前提ということ)、せわしない現代人を表わすものではないとも感じます。自分も反省を込めてです。

私は斎藤氏の言うリスクコミュニケーション=政府側の落ち度だけじゃないと思いますけどね。受け入れ拒否は。だってコミュニケーションて、受け手と発信手の2つがあって成り立つのですからね。


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