またいちおうメモ。今は続編
「光の指で触れよ」読んでいます。
◆エネルギー収支 →発電に必要なエネルギーを、設備の材料製造や建設から、燃料の採掘・運搬・精製の全部トータルしてそれと生みだされたエネルギーの比を計算。環境への負担なども入れて。

重油火力、原子力:4.8
(最後に解体撤去するまでのエネルギーをひいて、投下したエネルギーの4・8倍の電力が生みだされるということ)

LNG:1・5
(天然ガスを運ぶのに冷却捨て液化するのが膨大なエネルギーを使う。)

風力:稼働率50%、耐用年数30年で39.9(現場の作業はせいぜい2カ月、原発は10年かかるが)
(エネルギー密度は薄く、小さなのを無数に作るようになる。供給不安定、騒音と電波障害、風切り音)

◆30年後(この本は2000年のものなので)の電力生活の未来像?
原発はほとんど消滅
核融合は実用化断念
火力はまだある
大型のガス・タービンがふえている
太陽光と風力はふえている
マイクロ波送電、超電導送電もあり

省エネ進み家庭でも工場でも電力消費量は今の3分の1、
家庭では電力をトータルに管理して、必要に応じて家電に時間差をつけて配電する技術

◆「その故障しないことがなかなか大変なんです。いや意地悪で脅しているわけではないんですよ。しかし、ここの自然は日本の常識を超えている。作ったものはみな壊れる。だいたい、河川工学なんて、実際には経験則の集積にすぎませんからね。こんなものでいいだろうというだけなんです、それが専門家の『100年に1度の出水に耐える』ということの実体ですよ、私の場合では、ネパールでは何をやってもダメだったという印象ですね。嫌でも謙虚になりますよ。それがこの2年の収穫です。皮肉でもなんでもなく」

◆自分は機械の設計者なのであって、教育者ではない。今の時代は分業が基本、それぞれ最も得意な分野を受け持って才能を発揮すれば、それが社会にとってもいい結果をもたらす。

しかし、そうやって各人が専門の分野に閉じこもってしまうと、全体を見ている者が誰もいなくなる。本当を言えば、みんなが全体を見るべきなのではないか細分と統合の両方が必要。
たぶんプロデューサー的な才能。

◆「天野さん、科学ってなんですか」
林太郎は考えた。科学とは何か?どこまで遡れば、根っこのところから説明したことになるか。ラム君は今、ガミの若い連中になったつもりで質問をぶつけている。答えきれるかどうか、林太郎はとまどった。
「出発点はみんな知っていることなんだよ。人間は自然の中で暮らしている。日が照ったり、風が吹いたりする。水は高いところから低いところへ流れる。
生きていくためには、そういう自然の動きを知らなければならない。ヤギには足が4本ある。冬が来る直前に種を捲いても収穫は期待できない。
そういう日常生活から出てくる知識の後ろに、法則がある」
「法律みたいな?」
もっと強い法律は人間がつくるから、人間が変えられる。廃棄もできる。自然の法則はつくるものではない、見つけるものなんだ。見つかったものは変わらない。最初からあるものだから、変えようがない」
「それが役に立ちますか?」
「変わらないから法則は信用できる。それを土台にものが作れる。水は低い方にしか流れないけれど、科学の法則を使ってポンプを作れば、低いところの水をくみ上げることができる。」
「それなら、科学を勉強すれば、ぼくでも、ガミの若い連中でも、ポンプが作れますか?」
林太郎は返事に窮した。
ポンプは科学の原理にのっとって作られている。それはそうだが普通の人間がちょっと勉強して得られる程度の知識で実用的なポンプが作れるということではない。
ごく簡単ない井戸用のポンプでさえ、物理と工学の知識、鋳物の技術、組み立て、現場への設置、・・・ずいぶんたくさんの知識が要って、それを1人で実行するのは不可能に近い。第一、素材となる鉄はどうするのだ。「ポンプをつくる」という言葉を厳密にとればそううことになる、
「1人では無理だ。今の科学や技術は、たくさんの人が協力して、あっちこっちを少しずつ作って総合することでできている。1人で全部わかっているやつなんてまずいないよ」

◆今は深夜。パソコンはバッテリー駆動だが、部屋の中は薄暗いランプの光という状態。ずっとここでこんなふうに暮らしてもいいというのは冗談だが、しかし満足している。身体と頭を同じぐらいつかって、かぎりなくきれいな空気を吸って、どちらかといえば粗食だし、ぐっすり眠れるし、すごく健康的な生活だよ

◆「だから飛行機の運搬は天気と同じなんです。ここでは。ものごろの背後に理由を求めない。だから、もしもあの風車が故障したら、たぶんあれは壊れるべくして壊れたんだと言って誰も修理なんか考えない」
「手に余ると思ってしまうんでしょうね」
「手に余るという判断の範囲が広いんですよ。それだけ人間の方が弱い。自然が強い。」
「日本人は山の形でも川の流れでも変えてしまうから」
「そうやって住めるところを増やしていかないと、あれだけの人間は入らないんでしょうね」
「勝利なんだろうな、自然に対する」
「最近は自信がなくなってきたみたいでもありますよ。ダムの建設も勢いが鈍っている」

◆インドネシアも多民族国家ですから、結束のためにナショナリズムを利用する。これは言葉の矛盾ですね。実際にはこのナショナリズムは民族主義ではなくて、(だって多民族なんだから)国家主義です。でも、内政に問題を抱えた政治家にとって、外の敵はとても役に立つ。
チベット問題については、わたしだったやっぱりチベット側に味方したいと思いますよ。中国がチベットでやっていることは確かに非道です。
でも、ブチュンとの話で、あなたが踏みとどまったのはよかった。一緒になって悲憤慷慨しなかったのはよかった。共通の敵を前にした友情は気持ちがいいですから、気をつけてください。
判官贔屓でチベットがんばれというのはいい。だけどそれでは、個人の正義感、個人の憤慨の域を出ないと思うんです。
今の中国は、昔の塞外民族を全部とりこもうとしています。周辺の少数民族を縛ろうとしている。一人が逃げたらみんな逃げると心配している。
だからチベットは逃げられないのです。

◆思えは私は昔から名を知らぬ神々に祈ってきました。それは一つの心の姿勢であり、立って歩くことのように、幼い時に一度身につけたら忘れようのないものでした。私はいつも息をするように祈ってきました。
神々ないし仏の名を具体的なものにしようと仏教の論理を辿ったこともありましたが、やがて大事なのは祈る相手の姿や名ではないことを悟りました。祈りは自分の心の姿勢だと気づきました。
私の祈りは決して願いや望みではなく、いつも感謝であったと思います。自分が一つの命として世にあることをわたしは喜んできました。
わたしは他をさしおいて自分の身に幸福を配布してほしいと祈ったことはないと信じています。夫と息子が危険な旅をしている間、わたしはその危険を想像する旋律をかみしめました。それがわたしの義務でした。もしも二人の身に本当の危難がふりかかり、わたしがそれを知って悲嘆にくれたとしても、それをもかみしめる覚悟はありました。
危険が至高者の判断であったとすれば、わたしごときに何が言えるでしょうか。与えられるものすべてをわたしは感謝の両手に受け取ることができます。その力がわたしの心にはあります。
しかし、ご配慮によってそうはならず、わたしはこうして心からの感謝の祈りを口にしております。
山は神であり、雪は仏であり、吹く風は至高者の息吹だとわたしは信じております。山の純白を、雪の冷たさを、風の力を、わたしは(ちょうど夫が作った風車がそうするように)歓喜とともに受け取ります。天と地はそのまま存在の祝福であると信じます。
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