読売連載「川の光2」より
「憐れみ」とは、もっとも高貴な感情のひとつだろう。もちろん、
美しい感情、豊かなすばらしい感情なら、他にもたくさんある。恋人同士の激しい情熱、友達同士の熱い友情や連帯感、親子の間の慈愛や献身、夫婦の間の心の籠もった優しいいたわり合い・・・、

しかし、弱い者や小さな者を、何の打算もなく、驕り高ぶった優越感もなく、ただひたすら気遣い、いとおしみ、彼らに同情し共感するというこの「憐憫」という感情には、そのどれとも違う、かけがえのない気高さがある。それは、無償の「憐れみ」が、生き物の本能(たとえば性や生殖や自己保存のような)に根ざした「自然な」感情ではなく、生(き)のままの「自然」からは独立した、醇乎たる精神的価値を持つ感情だからだろう。

人は、何かを、あるいは誰かを「憐れむ」能力がなくても生きていけるし、それで何の不便も不都合もありはしない。実際、まだ精神が未発達な年齢のうちは、「憐れむ」ことを知らない子供がけっこう多い(だから学校でいじめなどという忌まわしい事件が起きるのだ)。心の成長につれて、人はだんだん「憐憫」の意味に目覚めてゆく。

ところが、大人になっても、「憐憫」を知らず、そのまま生涯を終える人々が以外にたくさんいるものだ。自分の利害、自分の快楽しか眼中になく、自分自身を「憐れむ」ことだけに汲々としている連中が、大手で振って歩いている。

「憐憫」の反対ごは、優越感とエゴイズムだろう。

「可哀そうになあ・・・」と少年が言った。「ほら、立てるかい、ワン公?」




ずっとずっと前に、室井佑月が、「朝イチ」で、「せめて福島の子供たちの給食はセシウムのないものを。だってそうじゃないと(線量が高いところにいるんだから)福島の子供がかわいそう」と発言した。

私は「その通りだ」と思った。
※当時は、福島の食事をしても、平均4ベクレル/kgという、陰膳調査の成果も知らなかったし、最大で1年食べても0.1ミリシーベルトっていうことも知らなかった。あのときは、まだ、最大で5ミリシーベルト/年だという認識だったから、せめて、外部被曝をほかの日本よりもしている福島県の一部の市町村では、せめて子供は、内部被曝はできるだけおさえてほしいとおもっていた、だから給食は・・・と思ったので、室井さんの意見に賛同した。

しかし、農業者から猛烈な反発、そして、安全を主張する人から猛烈な室井バッシングが起きた。当時、とてもいいブログだと思っていた方が「作家のくせにかわいそうという発言をする自体、語彙のなさを感じる。だいたい、かわいそうなんていう言葉は、よくない。この言葉を使う人は信用しない」と言い切っていました。

なんかこう、そうなんだろうか・・・としっくりしないものを感じていた。

かわいそうっておかしい言葉なのか?
「気の毒」っていうのと近いと思っていますが・・・。

と、思っていたので、この小説を読んだ時に、「こういう見方もあるのだな」と思ったわけです。

また、さらに、、
室井さんも、そういう感情をもって発言したのではなかったかということです。
「福島の子どもを守ろう」は胡散臭いって私はずっと思ってきたけれど、本当の根っこにはそういうものを持っている人だっているのではないかなと。
また、最初はそう思っていてもいつのまにか「活動」するうちに、方向が変な方に行ったとか。

つまりは、「あいつはこういう主張をしている時点で福島の敵」って思うこの風潮、なんとかならないかなということです。

前に、「小沢氏を擁護するから、上杉隆氏は敵だと思ってる」ということを書いたら、コメント欄で「敵味方で分けることほど愚かなことはない」と指摘されたことがあり、それからその言葉をずっと持ちながらいますけれども、どうしても、そういうふうに「これをやった奴はダメ」って切り捨てる自分がいるのも事実。

切り捨てるのをやめていかないとなりません。難儀な作業ですが・・・。

そういうことを、この「憐憫」解説を読んで、再確認したとこです。

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