最終です。過去メモはこちらと、こちら
何か、今後の参考になる気がするので抜粋しておきます。
◆全体がゆっくりしていて、いわばことが自然に満ちるのを待つ。自分の中から何かが生まれるのをみんな待っている。達成の目標などないから、急ぐ理由もない。
何かが得られたと思ったら、それを仲間に報告することもできる。しないままずっと考えていてもいい。
互いに競わない。それは他と己を比べないということだ。自分の値打ちを他人に計ってもらわない。あらゆる意味で自分に返る。
だから、他のメンバーの話を批判しないということになる。共感の言葉は口にするけれど、説得や論破はしない。案内役も案内するだけ。指導はしない。
そして、人々がそのように落ち着いて自分と向き合えるよう、天使たちが見守っている。優しく、黙って見守っている。

◆「設備は速やかに陳腐化してくれないと、次の製品が売れない、というのが日本の製造業の基本姿勢だけど、それは間違いだよ」

◆「スターリング・エンジンて知っている?外燃機関だ。2つのシリンダーピストン系をつないで、等温圧縮、等積過熱、等温膨張、等積放熱を繰り返す。太陽光を反射鏡で集めて熱源にして、それでスターリング・エンジンを動かして発電する。カリフォルニアの砂漠にたくさん並べるという計画らしい。500メガワットとかいう規模だ」

「原発みたい」

「出力だけはね。だが技術としては単純で、故障が少ない。風力や太陽光と一緒だ。出力は確かに大きい。だけど、1メガワットを500基並べるだけのことなんだ。1個ずつは単純なもの。反射鏡があって、エンジンがあって、発電機がある。それだけ。原発がいけないのは、複雑すぎることだよ。熱源である原子炉に対して、周辺機器が多すぎる。放射能の問題とは別に、姿がエレガントじゃない」

◆「作った電気は売らなければならないだろ。自家消費だけならばいいけれど、普通は電力会社に売る。買い手が1人しかいないという特殊なマーケットだ。買ってくれる保証があって、初めて風車を建てられる。電気も商品だ。相手に買う意思がなければ取引は成立しない。風力発電は新しい技術だから、二酸化炭素の排出がないなど、いろいろいいところはあるけれど、まだコストが高い。それでも将来のことを考えたら普及させなければならない。だから市場原理とは別の理由から、作られた電気は、一定の範囲内で電力会社が買い取るという法律をつくった」

「岩手県は風力発電の先進地域で、今の体制ならば総需要の3%近くを風力でまかなうことができる。ところが、このところ、電力会社の姿勢が消極的になった。もうこれ以上は風力の電気は買いたくないというのが本音みたいだ」

「風力はやはり供給が不安定なんだ。電気は貯めておけないし、品切れも許さない。在庫がありませんとは絶対に言えない。そういう意味で、原発なんかの電気に比べて、風力の電気は品質が劣る。周波数も安定しない。蓄電池を組み合わせてその欠点を補う技術が開発されているけど、これもコストに跳ね返る」

「今の日本では、風力は太陽光などの新エネルギーの比率が1・3%(注:この小説は2005年読売連載)。これから5年で3%にするといっているけど、できるかな。デンマークはもう20%を風力でまかなっているけどね」

◆「電気は自分でつくれませんか?」

「できますよ。うちの製品ではないけれど、最近は小型でいいのが出ています。風力で定格出力400ワット。太陽光とバッテリーも組み合わせてあって、実際の発電量は1日にだいたい300ワット時ぐらいですね。液晶テレビならば5時間見られる。・それで30何万だったかな。キットで買って自分で組み立てられます」

「いや、本当に家で使う電気をぜんぶ自分でまかなうとしたら・・・」

「それだって可能ですよ。太陽光のパネルならばいくらでも大きくできる。ぼくがネパール向けに開発した風車も、ここの山の上ならば設置できます。一戸分を一基で発電する」

「山にあの風車が立ったら・・・」

「きょうの午後、霧の牧場を見ながら考えていたんだ。ここならばあの風車を置けるなとか。家の中を徹底して省エネ化すれば、その風車一基でまかなえる。電気自動車の充電だってね。ただし、コストは高くつく。」

「山の上に設置して、送電線をこの家まで引くのも大変だな」

「個別に作っては効率が悪いのは当然。大型風車をたくさん尾根に並べるのは、その方がコストが下がるからですよ。それだって、火力や原子力にはかなわない。長い目で見れば風力と太陽光が主力になるべきだけど、まあずいぶん先の話でしょう」

「まず金がかかって、元をとるまでに時間がかかるってことか」

◆「なんで電気まで自分で作りたいんですか?」

「簡単に言えば、へそ曲がり。他人様の世話になりたくない。世の中は持ちつ持たれつお互い様だけれど、それがどうもね。おれはケチではないから、こちらから何か出してやるのはかまわないが、あっちから来るものがたいてい気にいらない。いっそ全部を自前でできたらどんなにか気持ちがいいだろうと考えるんだな」

そうか。そういうことか。普通の人は、いかに世間から多くを受け取るかばかり考えている(正確に言えば世間ではなくて社会か)しかし、そちらに背を向けるという生き方も確かにある。

「いや、夢みたいな話ですよ。自分の畑の作物だけ喰って、ニワトリとヤギを買えば、玉子とミルク、それに肉も手に入る。水は川から、電気は風から。ヒツジを飼えばセーターも自前、というのは行き過ぎかな」

「さっき、自分の喰うものを作るのに徹している人たちと言いましたね。あれは・・?」

「ああ、パーマカルチャーね。そういう農業を追求している人たちがいるんですよ。単作の利潤追求の農業とはまさに正反対のやり方だな。土地を細かく分けて、いろいろな作物を組み合わせる。植物どうしが助け合う環境を作ってやる。地形を利用して水を最大限まで活用する。小型の家畜を飼って、除草やたい肥作りを手伝わせる。コンポスト・トイレで人間の排せつ物も畑に返す。完全循環の農耕のシステムを目指す。土地から何も奪わず、土地に何も加えない。これならば、世間が不況になろうが、穀物相場が崩れようが、自分の土地だけで一家が生きていける」




これが実現したら、経済は成り立たなくなるでしょうね。

あと、この本ですが、(読みたい方はこの下スル―を。ネタばれです)







風車マンの林太郎が、最終的には会社を辞めて農業(パーマカルチャー)をやるのですが、その前に、会社の部下と不倫します。で、不倫をしって、奥さんがヨーロッパに家出し、行った先でパーマカルチャーに出あい、二人は別々に同じことを志したことがわかって復縁します。


ただし、その奥さんが行った先で、ヨーロッパで、パーマカルチャーをやっている青年に、霊的な癒し(気?とか?)を、マッサージまではいかないことで受けるんですが、その後、更に一歩進まないかって言われて、彼と交合するのですけれどね・・・・。

私、この解釈だけは、たえられませんね。まるで、アサハラが、いろんな美人信者にしたこととまるで一緒じゃないか!!

で、奥さんも全く霊的行為としか受けとめていないんですよね。その性的行為を。最後の復縁でもスル―です。(話題にもテーマにもあがっていないけれど私は非常に気になり違和感あり)

まあ、気持ちはわかるんですけど、正当化しちゃいかんだろと思いますよ。

私は霊的なものが現実より上だとは思っていない。同等だとは思うけれど。それは、科学と同じです。科学も霊的なものも同等だということ。科学が霊的なものより上だとは思っていないということです。




ついでに養老先生の「養老孟司の逆さメガネ」からも抜粋追加

◆そこで婆さんはしばし私の顔を眺めて、しみじみと言ったものです。「アンタね、大学に行くのはいいけど、バカになるよ」
お前が典型だよ。読者のみなさんはそう思ったかもしれません。それはともかく、大学に行けば知識がつく。でもそれが「行動に影響」しなければ、単なる知識にとどまる。婆さんはそれを言いたかったわけです。大学出はいろんなことを知っているが、やらせてみると、田んぼ一つ、手入れできないじゃないか。
知識が増えても、行動に影響がなければ、それは現実にならないのです。

ここでいいたいことは「現実は人それぞれ」「あなたの行動に影響するものがあなたの現実だ」という、この2つの定理です。

◆シミュレーションをやって、その結果作った宇宙船がちゃんと飛ぶ。そういったことに都会人は感心します。日々手入れをして、作物をちゃんと育てる。そのつもりが冷害で収穫がなかった。そんなことは逆にしたがりません。あんなことして、馬鹿だなあと思っている。それなら少子化の原因は明瞭じゃないですか。子育てはシミュレーションがきかないのです。

シミュレーションがきかない状態になると、都会の人は「どうすればいいんだ」とかならず訊きます。この質問が出ること自体、「ああすれば、こうなる」が前提になっているじゃないですか。そこで「シミュレーションがきかないんだよ」とまたいうと「じゃあ、どうすりゃいいんだ」とまた訊いてきます。際限ないんですな、これは。

「シミュレーションがきかない状態がある」ということを、絶対に認めないんですよ。答えをいっときますが、そういう状態になったら、努力・辛抱・根性しかないんですよ、実は。

だけど都会の人は、この3つが大嫌いなんだから。なんとか楽な方法がないかと思ってる。

◆そういうわけで、少子化から教育問題と、一貫して同じ問題が生じています。社会の中で似た問題を探すなら、それはいわゆる自然保護の問題です。子供の問題は、自然保護の問題と結びついています。
「自然保護」なんて、本当はおかしな言葉ですよ。自然食品だって、同じです。自然を「いいもの」と決めつけているように思えるからです。自然には地震も台風も、冷害も豪雨も干ばつも、噴火も洪水も含まれています。それがどうして「保護」の対象になるんですか。その意味での自然は、価値中立です。その意味で言えば子育てもじつは中立です。

◆農業をやっていれば、そこがむしろわかる(注:頭で考えても、かならずしも答えが出ないことをどう評価するか、つまり自然をどう評価するかということ)。それを「肌でわかる」というのです。それは必ずしも理屈ではない。つまり「意識」ではない。

◆子供は自らは意識的に生まれてきたものではありません。でも現代社会では、大人は普通徹底的に意識して子供をつくっているわけですね。だからそこに大きなギャップができてしまします。それで子供がいないという話と関係するわけです。「子供という自然」を代弁する大人がいないわけですから。
子供にしてみれば、気が付いたら生まれているわけです。でも大人の方は、子供が生まれることについて、ありとあらゆる面をコントロールしているつもりです。ですから出産予定日をまず計算する。そうなると今度は予定日に生まれないと心配でしょうがない。面倒くさいから、医者の方も、それなら予定日に産ませちゃえと考えます。いまではそれができる。
若い親は、子供を作る作らないは親の勝手と思っています。つまりそこは完全にコントロールできると思っている。ところがそのコントロール、つまり「つもり」は、生まれてくる子供にとっては、何の関係もないことです。

どんなにきちんと予定して産んだところで、生まれる本人に戻ってみると、予定していたつもりの世界が突然壊れちゃう。そんな当たり前の問題を人生自体が抱えているというのに、なぜ都会人は、万事をコントロールできると思っているのか。それ自体が不思議です。

(続行予定)

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