「響きあう脳と身体」甲野善紀×茂木健一郎2008
甲野:現代は一種の「科学信仰」と言っていい状態にあるんじゃないでしょうか。「あるある大事典」の納豆騒動一つとっても、あの騒動の中で言われている「科学的」というのは、結局のところアカデミズムの権威に過ぎません。捏造云々以前に、「その道の専門家が言ったら科学的」だと多くの人が考えているということが、そもそも馬鹿げたことだと私は思います。

現代は、何かと言えば「科学的かどうか」が問題となりますが、人間の身体について科学的に何かをはっきりさせるということは、どうしても部分的・限定的な傾向をならざるを得ないわけで、広い視野に立ってみれば、いくらでもあいまいなところを突っ込める。

科学とか何とか言う以前に、当たり前に物を見て、考えることができない人が増えているということに肌寒い思いがします。

茂木:「解明しにくい」というのは「解明できない」ということではないし、もちろん「存在しない」ということとも違う。今の科学の水準だと説明できないんだけど、実際にあるんだから、しょうがないという、ある意味当たりまえの話なんですよね。

もちろん私も実験をして、統計的に有意かどうかといった「科学的」研究も行います。しかし、問題はその結果をどう扱うかなんですね。

甲野:問題が大学の中だけでとどまっているんならそれはそれでいいんです。しかし結局、犠牲になっているのは選手や、スポーツ好きな一般の人たちですからね。「身体はとても複雑なシステムであり、自分たちの研究結果は条件を限定した特殊な例であり、とてもここの生身の人間に適用できる話ではない」ということを決して認めない。実際には「科学的実験でこういう結果が出た。よってこのトレーニング法は有効だ」という言い方をする。これがいろいろな問題を引き起こしているわけです。




甲野:表面上のつじつま合わせばかりしていると、どうしたって内面がこじれてきます。(シンガポール人が日本のホテルに泊まるとめちゃくちゃ汚す事例、禁酒時代のアメリカ船員がアメリカ外に行くと際限なく酒を飲んでしまう事例を挙げ)ああしろ、こうしろと外面だけつじつま合わせをしていると、人間の精神はいじけてきて、必ず別のところで噴出するのです。表面だけのつじつま合わせで言葉狩りをして、やさしさを売り物にして、嘘で固めた世の中をますます推し進めて、一体この先どうする気なのか。




茂木:今の教育って、基本的に「賢い個人」をたくさん作りだそうとしている。それて社会というものをひとつの大きなシステム、生き物として見た時に、言わば筋トレのように、一つ一つの細胞を「俺が俺が」というふうに肥大化させてしまうことになるのではないでしょうか。

以前、吉本隆明が「自分が知らなかったらほかの人に聞けばいいじゃないか」とおっしゃったのがすごく印象に残りました。これはとても大事な考え方だと思います。つまり、小乗仏教的に、どんどん自分を高めていこうというアプローチでは、下手すると、社会のシステムの中で、扱いにくいだけの「でしゃばり社員」を大量に作り出してしまうことにもなるのではないでしょうか。

人間は全知全能になることは絶対にあり得ないわけですから、すべてを自分で抱え込むことはできない。そのかわり、世の中にはいろんな人がいて、いろんな知識や知恵をそれぞれ持っていますから、他人とつながりあうことによって、自分の欠点を補ってもらったり、こちらかも何かを提供するなりといった形でコラボレーションができる。





茂木:「今ある自分とは違った部分」を外の世界に実現させたいという意味では、これらはすべて外向きの欲望のあり方と言っていいと思うのです。

僕は現代人の抱えているジレンマって、そういう哲学上の古来の難問と関係している気がしているのです。甲野さんがずっと身体の問題を強調されていて、そのメッセージが非常に大きな影響を人に与えている。その一方で文明の方はまったく別の方向に進んでいます。コンピュータができ、インターネットができ、グーグルができて、外部世界の拡大とそれに伴う身体性の矮小化は、これ以上ないところまで来ているわけです。

言いかえるならこの乖離、この矛盾が、もう耐えられないレベルまできてい、そのことに気づきつつある人たちが、甲野さんの言っていることに耳を貸し始めたということなのかもしれませんね。

たとえばSNSとか、最初はみんなはまるんだけど、しばらくするとついていけなくなってやめちゃう人が多いんです。それはネットの向こう側の世界が広がりすぎてしまって、「でも俺は今ここにしかいない」という乖離を強く感じるようになるからだと思います。「コメントの返事をしなきゃ」というプレッシャーもあるし、システム自体がどんどん抑圧的になってきて、こちらの身体がついていけなくなってしまう。そううことを経験している人たちにとって、甲野さんの「自分の身体の不思議に感動し、満足できる生き方」が、恐らくある種の「安らかな境地」として映っているのだと思うんです。




【感想】

全知全能になるべきか、分業で専門的になるべきか。
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