173ページ直接ご覧ください。段落調整等、一切調整していないので見づらいと思います。
これは私が自分でコピペ必要と思ったメモなので・・・
ただ、1つだけ、
福島の友達から最後の部分、とても共感するよねとメールありました。

「気にする自由」と「気にしない自由」をお互いに認め合うのが大切だと思う。自分が放射線のことを「気にしない」で生きているからといって、周囲の人にも同じ生き方を要求してしまうのよくない。今の日本では、「気にする自由」はすごく大事なのだから。

同じように、自分が「気にして」いて不安を感じているからといって、周囲の人にもいっしょに不安を感じ、同じ対策をとってほしいと思ってはいけないだろう。「気にしない自由」も大切にしてあげなくてはいけない。

この困難な時期に何よりも大切なのは、「気にする自由」と「気にしない自由」をお互いに尊重し合いながら、最良の未来を目指していくことだと信じている。


P45内部被曝は本当に危険なのか

そもそも知っておかなくてはいけないのは、外部被曝だからといって放射線の威力が弱まっているわけではないということだ。空気中を飛んでくるガンマ線は、空気の分子とはほとんど衝突しないまま、放出されたときと同じエネルギーで、ぼくらの体に飛び込んでくる。そして、運が悪ければ体の中の分子に衝突し、生体分子に傷をつける(このあたりは、4.3 節で取り上げる)。

内部被曝の場合は、体のどこかに入った放射性物質からガンマ線やベータ線が飛び出る。ガンマ線はそのまま体に害を与えずに体の外に飛び出してくることも多いが、運が悪ければ、生体分子を傷つける。

しかし、この「傷つけ方」は外部被曝の場合とまったく同じなのだ。ベータ線のほうは、体の中をある程度の距離だけ進んだところで、ほぼ確実に生体分子と衝突して傷をつける。この場合も、傷をつけるメカニズムは、ガンマ線の外部被曝の場合とほとんど変わらない。

つまり「一本の放射線が生体分子を傷つける」という分子レベルでの出来事を見るかぎりでは、外部被曝にも内部被曝にも特段の差はないと言ってよい。別に「内部被曝が安全」というわけではなく、内部被曝も、外部被曝も、ほぼ同じように危ないということだ。


内部被曝の場合は、体の中のどの部分にどれくらいの放射性物質があるかによって、被曝の仕方は随分と変わってくる。ヨウ素が甲状腺に蓄積されて健康被害を生むことはすぐ上に述べた通りだ。あるいは、プルトニウムのような物質は小さなかたまり塊のまま体の中に入ってしまうことがあるとされる。そういう場合には、塊の近くの組織が集中的に放射線を浴びるので、普通の被曝とは違った影響があるのではないかという見解もある。

今後の内部被曝の中心になる放射性セシウムの場合は、水に溶けて吸収され、筋肉などにほぼ均等に分布してから排出されると考えられているので、外部被曝と大きく異なる健康被害はおこさないというのが主流の考えだ*6。

まとめれば、内部被曝だからといって異常に怖ろしいと考えるべきではないが、外部被曝よりは複雑で理解し切れていないことがあると考えておくのがいいということになる。




P75

被曝した影響が後からじわじわと顔を出し、何年、何十年たった後に癌になる確率が少し高くなるとされている。「確率が少し高くなる」ということは、被曝の影響で癌になる人もいるけれど、そうでない人もいるということだ*22

だから、「うちのおばあちゃんは広島で原爆にあったけど、普通の年寄りよりずっと元気」とか、「○○さんは国際宇宙ステーションに滞在して△△ミリシーベルト被曝したけれど健康そのもの」といった個別の例を持ち出して、放射線のことを心配しないでいいというのは意味がない。

P76

2.4 節で述べたように、放射線は体の中の分子を電離する。細胞の中の生体分子が電離されると、その一部はこわ壊れてしまう。あるいは、細胞の中にたっぷりとある水の分子が電離された場合も、それによって作られる活性酸素がまわりの生体分子と激しく反応するので、やはり生体分子の一部が壊れてしまう。つまり、被曝によって細胞
の中の分子に小さな傷がつくのだ。

細胞の中の生体分子で、壊れることが特に問題になるのはDNA(デオキシリボ核酸)だ。DNA とは、ぼくら生き物の「設計図」の役割を果たしている大きな分子である(図4.5 を見よ)。ぼくらが祖先からう受けつ継いだ「いでん遺伝情報」がDNA にたくわえられていることを知っている人は多いだろう。けれど、DNAは親からの遺伝を受け継ぐためだけに使うのではない。体の中で、様々な目的に使うタンパク質を合成したり、新しく細胞をつくったりするときには、いつでもDNA に書き込まれた情報を使うのだ。DNA は、ぼくらが生き続けていくかぎりつねに必要な「設計図」ということができる。

そのDNA が放射線によって切断されること、特に、DNA の二本の鎖がまとめて切断されてしまうことが、癌の一つの要因になると考えられている。

DNA が切断されるといっても、それほど怖がる必要はない。実は、ぼくたちの体の中でDNA が切断されるというのは日常茶飯事なのだ。ぼくたちは生きていくために体の中で酸素を使うわけだけれど、そのときに、副産物として
活性酸素というものができてしまう。この活性酸素は困りもので、DNA に出合うと反応して切断してしまうのだ。
そこで、生物は、傷ついたDNA を治すためのしかけをちゃんともっている。DNA は設計図だから、単にちぎれたDNA をくっつけるだけでは修理したことにならない。書き込まれていた情報も正しく元通りに戻さなくてはいけないのだ。

DNA の修復メカニズムはものすごく発達していて、生物は驚くほど巧妙な方法をいろいろと組み合わせて、DNA についた傷をどんどん治しているのだ。

さらには、DNA がどうしても修復できないくらい壊れてしまったときには、その細胞を「廃棄処分」にしようと決めて殺してしまうしか仕掛け(アポトーシス)もある(ぼくらの体の中でおきていることは、知れば知るほど、ものすごく面白い)。

ちなみに短時間に大量被曝したときすぐに健康影響が出るのは、被曝によって多くの細胞がアポトーシスを起こすからだ。「10 cm の高さから飛び降りた程度のエネルギー」で人が嘔吐してしまうのは、こういう仕組みだったのだ。

■DNA の傷と癌

しかし、そうやって巧みに修理していっても、ごくごくまれに、DNA がちゃんと修理されていないままの細胞が「廃棄処分」されずにあとに残ってしまうことがある。そういう細胞は微妙にまちがった「設計図」をもっていることになる。

長い時間がたったあとで、まちがった「設計図」をもった細胞が「暴走」を始めることがある。普通の細胞は必要になった時にだけ細胞分裂して増えるのだが、「暴走」を始めた細胞はまったく必要もないのにすごい勢いで細胞分裂して増えていく。これが、癌だ*24。

癌細胞は、体に必要な栄養を使ってどんどん増えていき、たちまち他の臓器を圧迫するようになる。放っておけば、体をどんどんむしばんで、癌にかかった人は死んでしまうことになる。

つまり、癌のおおもとの原因は(DNA に書き込まれている)「設計図」のちょっとしたまちがいということになる。

普通に生きているだけでも「設計図のまちがい」は少しずつ増えていくことがわかっている。また、タバコを吸ったり、お酒を飲み過ぎたり、強いストレスを感じたり、「発癌物質」と呼ばれているものを体にとりこんだりしても、「設計図のまちがい」は増える。

ぼくらの身の回りの実にいろいろなものが癌の(遠い)原因になりうるのだ。

放射線の被曝も、「設計図のまちがい」を引き起こす数多い原因の一つだ。たくさん被曝すれば、たくさんのDNA が傷つけられるので、それだけ「設計図のまちがい」が後に残る可能性が高くなるというわけだ*25。ここで問題な
のは、被曝によって癌がどれくらい増えるかということだ。それを次の節で取り上げよう。

P90

ALARA とは、“as low as reasonably achievable” の頭文字を並べたもので、「合理的に達成できる範囲で、できる限り低く」という意味だ

ICRP としては、「公式の考え」で「線形閾値なし仮説」を採用した以上、どんなに低線量でも放射線被曝は有害だとみなす立場をとることになる。しかし、(自然被曝以外の)被曝をゼロにすることを目標にしてしまうのはおそらくナンセンスだ。放射線を扱う技術は医療関係も含めていっさい利用できないことになってしまうし、飛行機に乗ることももちろんできない。ほんの少しでも放射性物質に汚染された地域からは人々は避難しなくてはいけないことになる。

さすがにそれは無茶だということで、放射線被曝によって生じうる害と、その他の利益を秤にかけて、上手にバランスさせながら、被曝量をできる限り低くしていこうと考えるのである*50。これが「合理的に達成できる範囲で、できる限り低く(ALARA) の原則」だ。「線形閾値なし仮説」は、ALARA 原則と組み合わせてこそ、実際的な意味を
もつことに注意しよう。

P92

*52 福島第一原子力発電所の事故の際には、日本政府は、どの地域がどの時点まで緊急被曝状況に対応し、どの時点で現存被曝状況に移行したのかを(ぼくが知る限り)はっきりさせていない。しかし、子供たちが学校に通い始めた時点では、明らかに日常生活が戻っているわけだから、現存被曝状況に移っていたと考えるしかない。

*53 事故の直後、政府は福島での被曝量の上限を年間20 mSv とし、これは「ICRP の勧告の年間20~100 mSv の範囲」でもっとも低い値だと主張した。しかし、「年間20~100 ミリシーベルト」というのは緊急被曝状況での参考レベルである。その段階では既に子供たちが学校に通う現存被曝状況に移行していたと考えるべきなので、年間20 mSv は「ICRPの勧告の年間1~20 mSv の範囲」でもっとも高い値だったのだ。

P93

4.5 被曝による癌のリスクについての「公式の考え」77

その他の様々なえきがく疫学調査の結果をそうどういん総動員すると、もう少し低線量まで癌のリスクが増える兆候が見えてくる。そうは言っても、ぼくらに関わりのある緩慢な被曝については、癌リスクの増加の兆候が認められてるのは被曝線量がだいたい50 mSv を越す場合だけのようだ*54。

広島・長崎での調査よりも大規模な被曝事例の調査はないし、理論や動物実験だけでは、低線量被曝の人の健康への影響は完全にはわからない。普通の科学なら「わからない」ならば地道に研究を続けていけばいいわけだが、この場合は、影響があるのかないのかがぼくらにとって切実な問題だから悩ましい。

「わからない」ものは、そのまま「わからない」として放置するのも一つの合理的なやり方だと思う。「わからない」と言っても、あくまで「影響がない」か「今の調査では見えない程度の影響がある」かのどちらかなのだから、その範囲で人それぞれに判断すればいい。

一方、「わからない」領域についてもできるだけ理にかなった「目安」を定めようという姿勢もある。それが現在のICRP のやり方で、それをまとめたのが癌のリスクについての「公式の考え」だ(67 ページ)。これも十分に筋の通った進み方である。

特に、社会での放射線の利用を考えたり、放射性物質で汚染された地域で人々を守っていくことを考える上では、役に立つやり方なのだと思う。

ただ、低線量被曝での癌のリスクについての「公式の考え」は、あくまで、そのようにして作った社会的な「目安」であって、癌による死亡率を予測するための科学的な理論ではないということを忘れてはいけない。低線量では、実際の癌リスクは「公式の考え」が言うよりも2 倍、3 倍大きいということも十分にありうるし、逆に、「公式の考え」よりもずっと小さいということもありうる。

さらに、内部被曝については、4.2 節で注意したように、実効線量の見積もりに不確かさがあるから、「公式の考え」のリスク評価にはより大きな不確かさがあると考えるべきだ。また、自然被曝よりもずっと小さいような極端な低線量については、「公式の考え」の評価はほとんど意味がないとも思うべきだろう。
*54

低線量の被曝の健康への影響が「わからない」という説明を聞いて、「わからないということは、想像を絶するすさまじい被害があるのかもしれない」と感じてしまう人がいるようだ。ここまで読んできた読者には説明するまでもないだろうが、もちろん、そんな心配は無用だ。

そもそも低線量被曝の影響が「わからない」のは、広島・長崎の追跡調査などではっきりとした影響が見えないからだ。被害があるとしても、理屈で考えられるかぎり最大でも、「調査でぎりぎり見えないくらいの規模の被害」ということになる。「人々がバタバタと癌で倒れていく」というようなことはあり得ない。

また、いくら放射線に常識が通用しないと言っても、被曝した線量が小さいほど健康への影響が小さくなっていくことに疑いはないと思う。ICRP の「公式の考え」は絶対に正しいわけではないが、ある程度の不確かさがあることを知ってさえいれば、低線量被曝の影響を考えるための「目安」として役に立つはずだ。

まとめれば、低線量被曝の健康への影響については、確かに「わからない」部分も多いが、まったく「わからない」というわけではない。いくつかの役に立つ目安があるのだ。

P94

4.6 確率的におきる出来事についての考え方

■運命のクジ引き 低線量被曝によって「癌で命を落とす確率が少しだけ増えるかもしれない」という目安が与えられたとき、ぼくたちはその目安についてどう考えればいいのだろう? たとえば、生涯で通算100 ミリシーベルトの(自然被曝以外の)被曝で「もともと25 パーセントだった癌で死亡する確率が少しだけ増えて25.5 パーセントになる」というのは、どれくらい「ひどい話」なのだろう? ここでは、そういったことをていねい丁寧に考えてみたい。ちょっと長くて理屈っぽいけれど、気になる人は落ち着いて読んでほしい。

あなたは一生に一度だけのクジ引きをする。商店街の抽選に使う機械(回転式抽選機というらしい)のなかに200 個の球が入っている。ガラガラとまわして、球を1 個だけ出す。それが白玉だったらあなたは癌以外の原因で最期をむかえ、赤玉だったら癌で命を落とす*55。

もともと抽選機のなかには赤玉が50 個、白玉が150 個入っていた。このときには、抽選で赤玉を出す確率は、50/200 = 0.25(つまり4 分の1)である。パーセントで表わせば、25 パーセント。

これが赤玉の出るリスク、あるいは、癌で死亡するリスクである(リスクについては、付録B.1 を参照)。

さて、ここに悪者がやってきて、白玉を1 個だけ抜いて、か代わりに赤玉を1 個入れていった。赤玉が51 個で、白玉が149 個になった。赤玉をす確率、つまりリスクは、51/200= 0.255 に増えた。パーセントで言えば、25.5 パーセント。つまり、悪者の行為によって、癌で死亡するリスクが0.5 パーセントだけ上乗せされたことにな
る。これが、「公式の考え」による100 ミリシーベルトの被曝の影響というわけだ。

これは、あなたにとってどれくらい「ひどい話」だろうか?

少し想像するとわかるだろうが、「200 個のうち50 個が赤玉」というのと「200 個のうち51 個が赤玉」というのとは、実際に200 個の球を見せられても見分けられない程度の微妙な違いだ(図4.10)。どっちにしろ赤が出る確率は、ほぼ4 分の1。普通の抽選だったら気にならないレベル。でも、落ち着いて数えてみれば、赤玉は増えている! 
数字を知ってしまえば、やはり気になるかもしれない。
ガラガラとまわして、もし赤が出たら、あなたはがっかりするだろう。そして、「あそこで赤玉を入れたやつ奴のせいで、癌になってしまった!」と怒るかもしれない。けれど、本当にそうなのかは誰にも分からない。あなたが出した赤玉はもともと入っていたんじゃないのか? 実際、98 パーセント以上の確率で、あなたが出した赤い球はもともと入っていた赤玉で、悪者が入れた赤玉とは関係ないのだ。

だが、それだからといって「怒るのは非科学的だ」などと言うつもりはない。怒るのは人情だし、赤玉が増えたのは事実なのだ。

■大勢でクジを引く1 人でクジを引くのではなく、たとえば小学校の同窓生1 人でクジを引くのではなく、たとえば小学校のどうそうせい同窓生200 人でやればどうなるだろう? 「元の通りのクジ引きなら赤を出す人数が50 人。悪者が球を入れ替えたあとなら赤を出すのは51 人。悪者の影響がばっちりわかるぞ!」と思うかも知れない。しかし、これは正しくない。癌の運命のクジ引きの場合、一人の抽選が終わったら、出た球をまた抽選機に戻してよくかき混ぜてから、次の人の抽選の番になる。どの人も同じ条件
で、他の人の結果とは無関係に、抽選をするということだ。そうすると、200人のクジ引きが終わったあとでも、赤玉を出した人数は赤玉の個数とは普通は一致しない。赤玉が50 個だったとしても、赤を引いた人数が多めで58 人だったり、少なめで43 人だったり、いろいろと変わる。大ざっぱに言って、プラスマイナス10 人くらいの「ばらつき」がある方が普通なのだ。つまり、200 人が抽選をした程度では、赤玉が50 個から51 個に増えた「ききめ」はほとんど出てこない。抽選の結果をみても、赤玉が50 個だったのか、51 個だったのかはわからないのだ。

しかし、抽選をする人数をどんどん増やしていくと「ばらつき」の効果は(相対的には)小さくなっていくことがわかっている*56。たとえば、数万人の人が同じ「癌の運命のクジ引き」をしたとすると、「赤玉が50 個」の場合と「赤玉51 個」の場合を区別できるようになる。「悪者」が赤玉を1 個増やしたということが、癌による死亡者の数の統計からわかるようになるのだ。逆に言えば、「確率の0.5 パーセントの上乗せ」の効果は数万人の人が関わってようやくみつかるということだ*57。

「癌の運命のクジ引き」について、もう一つ大事なのは、クジ引きで結果が出たあとも、誰が「悪者が入れた赤玉」を引いたのかはわからないということだ*58。赤玉を引いてしまった人たちのほとんどは、「悪者」とは関係ない赤玉を引き当てているのだ。

■癌のリスク ここまでずっと「商店街のクジ引き」の「たとえ」で話を進めてきた。しかし、実際の癌のリスク(確率)のことを考えると、話はずっとずっとむずかしくなる。

まず、個人差の問題がある。たとえば、ごく自然な状態でも、癌になる割合で、男性のほうが女性よりもずっと高い。つまり、男女で違う抽選機を使っていることに相当する。他にも、4.5 節で述べたように、被曝による影響には様々な個人差あり、話をややこしくしている。

話をもっとむずかしくするのは、たとえ原子力発電所事故による被曝がまったくなかったとしても、人が癌で死亡する確率はいろいろな原因でどんどんと変わっていくということだ。たとえば、タバコを吸う人の数、食生活、空気の汚れ具合、人々が感じる精神的ストレスなどなど、さまざまな理由で癌で死亡する確率は変化すると考えられている。だから、そもそも被曝がなかったときに癌による生涯死亡リスクがいくつなのか、クジ引きで言えば、悪者が来る前に抽選機に赤玉が何個入っていたか、正確なことはわからないのだ。だから、「100 ミリシーベルトの被曝で、癌による生涯死亡リスクが0.5 パーセント上乗せ」と言っても、それを実際の癌による死亡者の数から確かめるのはかなり難しいことになる。

■どう考えるのか? 以上、長々と説明したことを踏まえて、では、どう考えればいいのか? もちろん、いくつかの考え方がある。

まず、個人の生き方としての観点は大ざっぱに「気にしない派」と「気にする派」に分けられるだろう。

• 気にしない派:もちろんいつかは死ぬ。癌になる可能性だって半々くらいあるし、それで死ぬ可能性も半々。「50 個だった赤玉が51 個になる」と言われても自分の人生にとっての影響はすごく小さい。そんなことは
気にしなくていいでしょ。

• 気にする派:できれば癌にならずに天寿を全うしたい。たとえわずかであっても、自分が癌で死亡する確率があがるのは不快だ。お酒を飲めば癌の確率が上がることは知っているが、そのときにはお酒を飲む楽しみがある。原子力発電所の事故で被曝しても何の利益も喜びもないのだ。たとえ1 パーセントでも0.5 パーセントでも認めたくない。

あるいは、社会全体について考えるときも、やはり「気にしない派」と「気にする派」があるだろう。

• 気にしない派:癌で死亡する確率が0.5 パーセント上がるとしても、それは実際問題としてほとんど確かめようがない(それに、「公式の考え方」は間違いで、本当は確率は上がらないかもしれないじゃないか)。そんなことを気にするくらいなら、タバコの害を減らすといった対策を考えるほうがずっと大事。

• 気にする派:たとえ0.5 パーセントであっても、1000 人いれば5 人、10 万人いれば500 人程度の人が余分に癌で死亡するかも知れないのだ。それが統計に現われないほどの小さな効果なのだとしても、500 人の命を奪うということを軽々しく考えてはいけない。

どの考えも筋が通っているので、ぼくとしてはどれを推薦するということはない。特に、個人としては、自分の感じ方とか人生観とかで、好きな考え方を選んでいいと思う。ただし、政府や地方自治体のように人々を守るべき立場から、個人に【気にしない派】の考えを勧めるのは許されないことだと考えている。

個人には、「気にする自由」があり、また、「気にしない自由」がある。それは政府にとやかく言われることではない。

政府や地方自治体には【気にする派】の人々も納得して暮らせるように最大限の努力をする義務がある。政府や地方自治体は、低線量被曝の問題を十二分に「気にし」ながら、様々なリスクとべんえき便益をしっかりとはかり秤にかけ、住民とつねに意見や情報を交換しながら、ものごとを決めていかなくてはならないのだ。

P138

■健康を害する人が目に見えて増えることもない(だろう) さらに、ぼくの個人的な見解を言えば、これから先、放射線被曝のために健康を害する人が目に見えて増えるということもないだろうと思っている。

そう思う理由の一つは、4.1 節でも紹介した、2011 年3 月末の福島でのヨウ素131 による甲状腺被曝量のスクリーニング検査の結果だ。これは決して精密な検査ではないが、それでも、チェルノブイリの子供たちが受けたような
大量の被曝は、今回の福島ではおきなかったことは、(かなり)はっきりした。ともかく、チェルノブイリよりは、ずっとよかったのだ。

もう一つの理由は、6.4 節で見た、南相馬市での内部被曝についての検診の結果(と、それに類する他の調査結果)だ。今のところ、ICRP の実効線量の立場から見て心配がないのはもちろん、より厳しく、体内のセシウムの量と比較しても、あるいは、さらに厳しく、1960 年代の被曝量と比較しても、やはり心配がない結果が出ている。

こういった調査結果、あるいは、地面や食品の汚染状況を見るかぎり、日本の人々の健康が目に見えて悪化することはないと判断できそうだ、というのがぼくの個人的見解である。

ただし、これで安心してしまっていいとは思っていない。

まず、一つ目のチェルノブイリとの比較について、少し書いておこう。チェルノブイリでの健康被害については未だにえんえん延々と論争が続いており、本当に何がおきたのかは誰にもわかっていない。子供の甲状腺癌が増えたことだ*3けはすべての専門家が認めているけれど*4、それ以外の健康被害については、人によって、文献によって、主張していることがまったく違っている*5。だから、単に「チェルノブイリよりもまし」というだけでは、日本で何かがおきないことの保証にはならない。

たとえば、ウクライナの国の公式レポート(以下のURL から英訳を入手可能)では、小児甲状腺癌以外に大人や若者の疾患を含む幅広い健康被害があったことが報告されている。これは、原則として、小児甲状腺癌以外の健康被害の有無ははっきりしないとするWHO(世界保健機関)などの公式見解とは、大きく異なっている。
http://www.mns.gov.ua/files/2011/6/10/25_let_angl.rar


二つ目の「安心材料」である内部被曝の状況についても少しコメントしておく。

まず、どうしても(再度)強調したいのは、放射性セシウムによる内部被曝を(少なくとも今のところ)ここまでおさ抑え込むことができたのは、数多くの関係者の必死の努力のお陰だということだ。特に、多くの生産者は、ぼくたち部外者には想像もできない苦しい思いを抱きながら、放射性物質を流通させない対策に協力したのだと思う*7。心から敬意と感謝を表したい。

■議論は続くだろうぼく自身は「目に見えて健康を害する人が増えることは、ない」と考えているわけだが、それでも、「調査した結果、健康被害がみつかった」という見解を唱える人が現われるのは確実だと思っている。もちろん、既に色々なことを言っている人がいるのは知っているが、より綿密な調査と学術的な解析にもとづいて、「よく調べてみると、健康被害が増えている」と主張をする人が出てくるだろうということだ。

これは避けがたいことだろうし、(万が一、本当に被害が出た場合のことを考えれば)必要なことだとも思う。ただ、研究者が必要以上に危険を強調したり、マスコミがセンセーショナルに報道したりといった「行きすぎ」だけは是非とも避けてほしいと今から願っている*8。

関連することとして、これから先、福島で癌と診断される人の数が増えていくだろうと(多くの人と同様)ぼくは考えている。これは、放射線の被害で癌が増えるからではない。おそらく癌はほとんど増えないが、多くの人が定期的に癌の診断を受けるようになり、早期発見が進み、見かけ上の癌の患者が増えるということだ。その結果とし

て、初期の段階で治療する人が増えて、最終的には癌による死亡率は減っていく可能性が高いと思う。

事故の何ヶ月か後、まだまだ世間がひどく混乱していた時期に、ある福島のお医者さんが語った「こうなった以上、福島が日本一の健康で長寿の県になるとうれしい。いや、絶対に、そうしてみせる!」という言葉を、ぼくは忘れない。

P142

だからといって、やたらパニックになったり大騒ぎしたりする必要はない。
でも、逆に、すべてについてれいせい冷静でちんちゃく沈着にふだんどお普段通りにやろうとしなくてもい
いんだとも思う。こんな時期なんだから、日本にいる人が皆、同じ反応をして同じように考える必要なんて、絶対にない。みんなが、それぞれに「自分らしい」反応をすればいいんだと思う。

やたら冷静でいつも通りの人もいれば、色々と気にして普段とは違う対策をとる人もいる。ぼくはそれでいいと思う。こんな時なんだから、お互いのやり方を邪魔しないで、みんなそれぞれにバラエティーに富んだ生き方をすればいい。放射線との付き合いはこれからずっと続く長期戦だから、しばらくすれば、徐々に新しいバランスが見えてくるはずだ。気長にやろう。

放射線のことがわからず、怖くて仕方がなくて心配している人はたくさんいると思う。ぼくは、それは当然だと思うし、仕方がないと思う。誰も経験したことのない事態だし、わけ訳の分からないものを怖いと思うのは自然な心理だ。

「あなたの怖がり方は正しくない。正しく怖がりなさい」などと言われても、どうしようもない。「怖い」というのは人間の素直な感情なのだから、「正しい」とか「正しくない」とか言う物ではないはずだ*11。そもそも「正しく怖がれ」と言われて恐怖感が消えるようだったら、そんな楽な話はない。

■「気にする自由」と「気にしない自由」ぼくは、「気になる人」たちには「気にする自由」があると信じている。恥ずかしがらず、堂々と、「気になる、心配だ」と言うべきだし、まわりの人も「気にする自由」を認めるべきだ。なにしろ、歴史に残るとんでもないことが日本でおきて、それから、ほんの少ししか時間が経ってないのだから。

色々な人の体験談を聞いてみると、「気になる」と思っているのに、それを人に言えず、特に何もできないままもんもん悶々としているのは、ものすごくせいしんえいせい精神衛生に悪いという*12。そこでインターネットをやって、「危ない危ない」と言っている人のブログやTwitter を読
むと、さらに精神衛生に悪い。


それよりも、「気になる」ならば、たとえば、自分の周辺の地域の空間線量率を(インターネットなどで)調べ、この本に書いたいくつかの「目安」と比較して自分なりに検討してみるといいと思う。

あるいは、「例題」の計算を自分でやってみるのもいい。自分なりに考えていれば、だんだんと物の見え方や心持ちも変わってくるんじゃないだろうか(別に「気にする」のをやめる必要はないですよ)。さらに、同じように「気になる」と思っている人と知り合って、いっしょに色々と調べたり考えたりできるようになれば、なおよいと思う。

「気にする自由」があるのと同じように、「気にしない自由」があるということも言っておきたい。

人生は(おそらく)1 回きりだし、人には、悩むべきこと、考えるべきこと、がんばるべきことが色々とある。日本が大変なのはわかっているが、自分が色々と気にしてものごと物事が急に改善するわけでもない。むしろ、自分が、人生の今の時期にやるべきことを全力でやろう— というのは、尊敬すべき立派な態度だと思う。
いや、別にそんなかっこよくなくても、単に「気にならないから、気にしない」というのだって、ありだと思う。ご存知のように、そういう人はかなり多い。

なんか玉虫色ではあるけれど、「気にする自由」と「気にしない自由」をお互いに認め合うのが大切だと思う。
自分が放射線のことを「気にしない」で生きているからといって、周囲の人にも同じ生き方を要求してしまうのよくない。今の日本では、「気にする自由」はすごく大事なのだから。

同じように、自分が「気にして」いて不安を感じているからといって、周囲の人にもいっしょに不安を感じ、同じ対策をとってほしいと思ってはいけないだろう。「気にしない自由」も大切にしてあげなくてはいけない。

もちろん、「気にする人」と「気にしない人」が同じ社会で暮らしていれば、意見の不一致や不便なことは出てくるに違いない。それは仕方がないことだ。

なにしろ、日本は戦争以来の最大のきき危機にみま見舞われたのだから、不都合が出てくるのも無理はない。どちらか一方が(あるいは、両方が)ある程度の我慢をしてゆず譲らなくてはならないだろうが、そこは理性的に話し合って決めていくしかない。

ぼくなんかが偉そうなことを言うのは恥ずかしいけれど、この困難な時期に何よりも大切なのは、「気にする自由」と「気にしない自由」をお互いに尊重し合いながら、最良の未来を目指していくことだと信じている。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://leika7kgb.blog114.fc2.com/tb.php/789-68d137e1