マイケル・サンデル「それをお金で買いますか 市場主義の限界」より
核廃棄物処理場について。抜粋します。


長年にわたり、スイスは放射性核廃棄物の貯蔵場所を見つけようとしていた。この国は核エネルギーに大きく依存しているが、核廃棄物を抱え込みたいというコミュニティーはほとんどなかった。

核廃棄物処理場の候補地に指定された場所の一つが、スイス中央部のヴォルフェンシーセンという小さな山村(人口2100人)だった。

1993年、この問題をめぐる住民投票の直前に、数名の経済学者が村民調査を実施して、連邦議会がこの村に核廃棄物処理場を建設すると決定したら、処理場の受け入れに賛成票を投じるかと質問した。その施設は地元に押し付けられるお荷物だという見方が広がっていたにもかかわらず、ぎりぎり過半数(51%)の住民が受け入れると回答した。どうやら、国民としての義務の意識がリスクにまつわる懸念を上回ったようだ。

続いて、経済学者たちは、<アメ>を付け加えた。連邦議会があなたの村に核廃棄物処理場を建設を提案するとともに、村民ひとりひとりに毎年補償金を支払うことを申し出たとしよう。そのとき、提案に賛成するだろうか?

結果として、賛成は減り、増えることはなかった。

金銭的な誘因を追加したせいで、受け入れると回答した住民の割合は25%に半減した。金銭提供の申し出は、予想に反して、核廃棄物処理場を引き受けてもいいという人々の気持ちに水を差したのだ。そればかりか、補償金の増額も助けにならなかった。1人当たり年間8700ドルもの現金給付が提示されても、住民は頑として譲らなかった。

ここまで極端ではないにしろ、放射性廃棄物処理場の反対してきたほかのコミュニティーでも確認されている。

では、このスイスの村で何が起こっていたのだろうか。有償より無償で核廃棄物を受け入れようという人のほうが多いのはなぜだろうか。

標準的な経済分析によれば、ある負担を受け入れてもらうための金銭の提供は、受け入れの意欲を増しこそすれ、減らすことはないとされる。しかし、この調査を指揮した経済学者のブルーノSフライと、フェリックス・オーバホルツァー・キーは、共通善への貢献を含む道徳的配慮によって、ときとして価格効果が打ち消される場合があることを指摘している。

多くの村人にとって、核廃棄物処理場を受け入れようという意志は公共心・・・スイスは全体として核エネルギーに依存しているのだから、核廃棄物はどこかに貯蔵されなければならないという認識・・・を反映するものだった。自分たちのコミュニティーが最も安全な貯蔵場所であるとわかれば、その負担を進んで担うつもりだった。この市民としての貢献という背景があったため、村人への現金提供は賄賂、つまり票を買うための働きかけのように感じられたのだ。実際、金銭の申し出を拒否した村人の83%は、反対理由を説明して、自分は賄賂に動かされたりはしないと語っている。

金銭的インセンティブを追加すれば何であれすでに存在する公共心は強まり、核廃棄物処理場への支持が増えると思われるかもしれない。結局のところ、2つのインセンティブ・・金銭的なものと市民的なもの・・のほうが、1つよりも強力ではないだろうか?

いや、必ずしもそうではない。インセンティブが累積すると考えるのは間違いだ。反対にスイスの善良な市民にとっては、個人への金銭的支払が見込まれることによって、市民としての問題が金銭の問題に変質してしまった、市場の規範が侵入したせいで、市民としての義務感が締め出されてしまったのだ。

この調査に関する報告書の執筆者はこう結論している。「公共心が浸透している地域において、金銭的インセンティブを利用し、社会としては望ましいが地域には歓迎されない施設の建設に支持を集めようとすると、標準的な経済理論によって示される価格よりも高くつくことになる。こうしたインセンティブは、市民としての義務感を締め出す傾向があるからだ」

だからといって、行政機関は、地域社会に立地の決定を押し付けるだけでよいというわけではない。高圧的な統制は、金銭的インセンティブよりも公共心を腐敗させることがある。地域住民がみずからリスクを評価できるようにすること、最も公益に資する立地の決定に市民の参加を認めること、必要であれば危険な施設を閉鎖する権利を受け入れ側のコミュニティーに認めること、・・・これらは、一般の支持を得る上で、ただ支持を買おうとするより確実な方法である。

現金報酬はたいてい反感を買うものの、現物による補償は歓迎されることが多い。コミュニティーはしばしば、望ましくない公共事業・・・飛行場、ごみ埋め立て地、リサイクル基地など・・・を地元に置くことの補償を受け取る。しかし、研究から明らかになっているのは、こうした補償は現金よりも公共財という形をとったほうが受け入れられやすいということだ。公園、図書館、学校の改築、公民館、ジョギングコースやサイクリングコースでさえ、金銭よりは補償として受け入れられやすい。

現物の公共財よりも現金のほうがおそらくよいはずだという論理は、市民としての犠牲の意味をとらえ損ねている。公共的な損害や不都合の補償としては、個人でもらう現金より公共財のほうがふさわしいのだ。というのも、公共財は、立地の決定がもたらす市民の負担と犠牲の分担に感謝の意を表するものだからだ。新しい滑走路やごみ埋め立て地を町に受け入れる代わりに、町民に支払われるお金は、コミュニティーの劣化を黙認してもらうための賄賂とみなすことができる。しかし、新しい図書館、運動場、学校などは、コミュニティーの結束を強め、公共心を涵養することによって、市民の犠牲に、いわば同じ方法で報いるのである。




これを読んで私が感じたは、無償でなら受け入れる、という崇高な思いを持った人が、当時のスイスにそれほどいたということへの驚きです。

だけど、その後はどうなったのでしょうか。
さらに、「どうして、日本各地では反対ばっかりなんだろう」と思ったんですが・・・国民性でしょうか。

別に、核廃棄物の処理について書いてあると思わないで読んだ本でしたが、迷惑施設の代わりに公共の建物を・・・というのはよく聞きますし、今回の事故で「補償金」と名のつくものは、薬かもしれないが、毒にもなるのでは、と薄々思っていたのとなんとなくつながりました。

福島第一、第二原発のどちらの見返りかわからないけど、(どちらも?)Jビレッジを東電がつくってくれたのは、理にかなっていたのだなと思いました。
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