読売に連載していた「時代の証言者」と、
ブログに書かれていた、原発についてきちんと
話したい、とされていたことの二本立ての本が
出ました。「リスクと向きあう 福島原発事故以後」2012.11.25

過去記事から
「時代の証言者」関連・続き
中西先生の山下先生論
中西先生のリスク・コミュニケーションの定義

この本で、私が新たに知ったのは、震災当時、先生のつれあいの濱田さんが闘病中で、その後、なくなったということです。それで、「原子力について避けていた」から直後から発信できなかったのではなく、その余裕もかなわなかったのかもしれぬと思います。

そして、放射線防護学の野口邦和先生が「医師にもかかわらず、妻子を沖縄に逃がした。医師でさえもそうだ。この国の科学教育はほんとうになっていない」と言われたのが象徴的だったのですが、(2011年6月の静岡大での講演にて)、中西先生の娘さんとお孫さんは東京から一時避難しています。そのことも明らかにされています。なかなか身内などでそうだったということを書ける科学者は、(左翼や放射能フォビアは別)少ないと思っていますので、それをここに要約・抜粋します。





個人的な話になりますが、3.11のとき、うちの孫は4歳と1・5歳でした。3月14日に3号機が水素爆発を起こし、翌15日に2人の孫とその両親の4人は東京を離れ西に向かいました。

それは、当時、闘病中だったつれあいの濱田さんが強く勧めたのです。濱田さんは、小出さんをとても尊敬しよく彼の本を読んでいました。濱田さんは水素爆発を、格納容器自体が、核燃料が高音でとけ、圧力に耐えきれずに壊れて、水蒸気が噴き出した水蒸気爆発だと思ったようでした。そして「早くどこかに行った方がいい。ハワイぐらい遠くまで行ってもいいし」と娘に伝えるよう、強く言いました。本人自身こそ明日もわからぬ状況なのに、ひたすら娘と孫の心配をしていました。

私は東京からでなければならないとは思っていなかったのですが、事故がもっとひどくなる可能性はある と思ったので、とりあえず、伝えました。「濱田さんはこう言っているよ、一応、伝えておくね」と言った。そしたら、娘たち、翌朝さっといなくなってしまった。京都に行ったあと、九州や沖縄に回ったようです。

娘の夫が、仕事が始まるのでまず戻り、娘は自分1人と子供たちでホテルに泊まっているとノイローゼになってしまうので「戻りたい」と言ってきました。私は「だれも戻っちゃいけないとは言ってないわ」と言って娘たちは戻ってきました。1カ月西の方に避難していたことになりますね。最初にホームシックにかかったのは娘だったみたいです。

娘たちが恐れたのは、その時の放射線のレベルではなく、もっとひどい事故が起きるのではないかということだったのです。こういう避難は長続きするものではなかったのですが、一時的にはありうるということですね。

除染したあとに、ある程度許容できるレベルに放射線が下がれば、かなりの人が戻るとは思いますが、それでも子供が小さいから嫌だという人はいるでしょう。そういう人たちに対しては、きっちりサポートする政策もとるべきだと思います




リーフレインさんが、以前、自主避難者が戻れないというのは、線量ということもあるかもしれないけれど、それより何より、「また原発がどうかなってしまうのではないか。距離的に近いから怖い」という人も多いのではないか、とお話ししていました。

それに、帰れないと思う人に対してきちんとサポートを、と願う気持ちが強いところも一緒です。

中西先生とリーフレインさんは、前から感じが似ている(※中西先生は文章を読んだことしかないですが)と思っていたのですが、やはり、似ています。男女差別をしてしまって悪いんだけれど、女性で科学に明るい方というのは、やはり、男性科学者とは一線を画します・・・。母性的であり、理性的であり。



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